空挺部隊の奮闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:51 UTC 版)
アダンはウジ・ヤイリ(英語版)と、アダンの以前の指揮所で会見した。アダンは簡潔に状況を説明し、短時間の議論でヤイリは計画を練った。彼はアカビシュとティルツールを掃討する任務を受けた。23時30分、空挺部隊は移動を開始し、イツハーク・モルデハイ中佐が指揮する大隊が進軍の先鋒を務めた。ヤイリは切迫感をもって行動しており、十分な情報を待つこと、あるいはエジプト軍の防衛網を適切に偵察することなしに行動に移ることを決めていた。配下の部隊は射弾観測員を欠いており、その到着を待つよりも、空挺部隊が第162師団の指揮通信系に砲撃支援を要請することで合意がなされた。旅団は機甲部隊の支援なしに行動していた。 しばらくの後に、モルデハイの大隊はティルツールとアカビシュが最も接近している、両者の間隔が2キロ(1.2マイル)を越えない地帯に到達した。2時45分頃、彼らはティルツール周辺に位置する、アブデル・ハミドの左翼側大隊と接触するに至った。当大隊は空挺部隊へ効果的な砲撃を行い、相手の方は塹壕に陣取ったエジプト軍歩兵から、機関銃と小火器による激しい銃撃をも浴びた。空挺部隊は、エジプト軍の戦線から数メートル以内の突出地点にあった機関銃座を襲撃しようと試みた。空挺部隊の各中隊は散開したものの、防衛線への到達では失敗を繰り返した。イスラエル軍の砲撃は効果を発揮しなかった。エジプト軍歩兵部隊は空挺部隊の動きを封じ、側面を衝く試みを妨害することができた。大半の中隊・小隊指揮官が戦死するか、あるいは負傷した。アダンはヤイリに、旅団の戦線を狭めて、代わりにアカビシュを開くことに専念するよう命じたが、先鋒の空挺大隊は激しい砲火の下におり、動くことは不可能であった。 夜明けが近づき、アダンは暗闇の中の残り数時間で浮き橋を運河に持ち込めなければ、丸1日が運河に掛け渡された橋なしに過ぎることとなり、また陽光の下では、空挺部隊はさらなる死傷者を出すであろうと悟った。3時、彼はハーフトラックの1個中隊をアカビシュ偵察のため送り出した。30分後、当中隊は何らの抵抗にも遭うことなく渡河地点へ到着したと伝えた。空挺部隊と戦うエジプト軍大隊はティルツールのイスラエル軍に全ての注意を向けており、アカビシュでの動きを見ていなかった。欠けがえのない浮き橋をアカビシュ経由で運河へ送り込むという、危険を背負った決定をアダンは下した。イスラエル国防軍のD9ブルドーザー(英語版)が残骸や破片を道路上から片づけ、そしてイスラエル軍はラケカン要塞に到達し、次いで北に方向を転じて、遂に渡河地点へ到着した。直ちに橋の建設作業が、第143師団の工兵によって開始された。 夜明けにヤイリは、空挺部隊がここまでエジプト軍前線への到達に成功していなかったことから、配下の旅団を後退させるためアダンからの承認を求めた。ゴネン(英語版)は求めを却下し、負傷者のための後送のみを認めた。バーレブ(英語版)がアダンをその指揮所に訪問して、空挺部隊の状況の深刻さを悟った後に、これは取り消された。1個機甲大隊が空挺部隊の援護任務を託されたものの、彼らを発見できなかった。空挺部隊は自分たちの位置を特定するため赤色の煙を上げたが、これが裏目に出て、エジプト軍も煙を見つけて正確な砲撃を彼らに向け、さらなる死傷を強いた。戦車群が防衛線を襲ったが、損害を被って後退した。剥き出しでの撤退は達成不可能であることが明らかとなった。装甲兵員輸送車(APC)とハーフトラックが、空挺部隊と負傷者を運び出すために持ち込まれた――その間中、砲火に晒され続けであった。イスラエル軍はようやく、友軍戦車の援護の下で撤退した。ほとんど間断なく続いた14時間の戦闘で、空挺部隊は多数の死傷者を出し、40名から70名が戦死して100名が負傷した。ヤイリは「敵の防衛力に関する正確な情報なしに、余りに急いて行動に移ったことで、我々は70名の死傷者を出した」と述べることになる。撤退の間に機甲部隊が蒙った損失も、また大であった。
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