福田 (岡山市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/02 19:24 UTC 版)
福田
ふくだ
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国 | ![]() |
都道府県 | ![]() |
市町村 | ![]() |
行政区 | 南区 |
新設 | 1889年(明治22年)6月1日 |
面積 | |
• 合計 | 1.212916 km2 |
最高標高 | 1.3 m |
最低標高 | 0.0 m |
人口 | |
• 合計 | 7,556人 |
• 密度 | 6,200人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
702-8021
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市外局番 | 086 |
ナンバープレート | 岡山 |
福田(ふくだ)は、岡山県岡山市南区の大字。郵便番号は702-8021(岡山南郵便局管区)。岡南と呼ばれる地域に位置し、芳泉地区の一部となる。かつては御津郡福浜村の一部であった。近世に海域を干拓し造成された土地で、福田新田(ふくだしんでん)、青江新田(あおえしんでん)[2]に相当する。
2010年国勢調査による人口は7556人(男3668人/女3888人)、世帯数は2824世帯、面積は121万2916m2、人口密度は6229.6人/km2[1]。
概要
市街より南方にあたる。 市街南方近郊を総称して岡南と呼ぶが、当地はその中部に位置し、芳泉地区の一部を構成する。
元は農村であったが、市街近郊という土地柄から周辺の地区同様、モータリゼーションの発達にともない宅地化・市街化が進行し、人口が密集地となっている。当地外であるが、すぐ北方を国道2号岡山バイパスが東西に通過している。
小・中学校の学区
公立の小・中学校に通学する場合、学区は次のように指定されている[3] 。
区域 | 小学校 | 中学校 |
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全域 | 芳泉小学校 | 芳泉中学校 |
沿革
歴史
旭川の河口にできた干潟を、寛永8年(1631年)に岡山藩が干拓し新田を開発。福田新田(ふくだしんでん)と呼ばれていたが、貞享年間(1684〜1687年) に一村として独立し、御野郡に属し福田村と称した。『吉備温故』 には石高1,000石5升、田畑64町 3反9畝12歩、家39軒、男女305人との記載がある[4]。
当時は現在よりも区域は狭く、元禄11年、現在の福田の西部にあたる区域(当時は海域)を干拓造成し、青江新田(あおえしんでん)が開発される。青江新田は当初、青江村の枝村であったが、文化年間までの間に福田村の枝村へと変更された[5][6]。
明治9年に青江新田と合併。同22年、福島村など5村と合併して福浜村となり、大字福田となる[4]。
昭和6年4月1日、福浜村が岡山市に編入合併した[4]。
平成22年4月1日、岡山市が政令指定都市へ移行し、行政区(南区)が設置された。
平成27年1月31日、町名表示の変更で福田の一部地区が当新田の一部地区(国道30号線以東)と一緒に岡山市南区芳泉になる。(岡山市南区芳泉○丁目○番○号と表記する)郵便番号は702-8027
地名の由来
主要施設
医療・福祉施設
- 芳泉整形外科
- なかたに歯科医院
- 特別養護老人ホーム敬愛
- かわい保育園
一般企業・商店
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交通
道路
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参考文献
- 『県別マップル岡山県道路地図』昭文社(2013年)
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社(1974年)
- 下中直也 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社(1981年)
- 谷淵陽一『岡山市の地名由来』平和納庫発行・吉備人出版製作(2002年)
- 岡山市立芳泉小学校2013年12月閲覧
脚注
関連項目
外部リンク
「福田 (岡山市)」の例文・使い方・用例・文例
- 私、株式会社福田製薬の総務部の阿部と申します。
- 福田さんの家へちょっとよって行こう。
- 彼は福田派に属していました。
- 福田教授はバイオテクノロジーの分野で優れた業績をあげている.
- 福田康(やす)夫(お)内閣官房長官は5月7日の記者会見で辞任を表明した。
- 福田氏を含む7人の閣僚が,義務づけられている国民年金の保険料を納めていなかったと認めた。
- 4月23日に,福田氏は60歳の時点で保険料を支払っていたと述べた。
- その後4月28日には,福田氏は3年1か月間保険料を支払っていなかったことを認めた。
- 5月7日に発売された週刊誌は,福田氏が実際は5年8か月間保険料を納めていなかったと報じた。
- これは福田氏が石油会社を退職した後,衆議院議員になる前の13年間のことだった。
- 福田氏は自分が国民の政治への信頼を弱めたと認めている。
- 福田首相が拉(ら)致(ち)被害者家族と会談
- 10月26日,福田康(やす)夫(お)首相は北朝鮮によって拉(ら)致(ち)された日本人の家族と首相として初めて面会した。
- 面会で,福田首相は被害者家族との関係を改善したいと強調し,「私はかつて対話を重視しすぎると非難された。しかし,この問題についてみなさんを本当に助けたいと思っている。」と話した。
- 当時の官房長官だった福田氏は,拉致被害者のうち一部はすでに死亡したという北朝鮮のメッセージを家族に伝えた。
- 福田氏は対話重視の姿勢を続け,このことが被害者家族の不信を招いた。
- 被害者家族の代表である横田滋(しげる)さんは,福田首相との面会後に「これほど長いこう着状態を経て,事態が好転することを期待している。」と話した。
- 被害者家族のもう1人の代表である飯(いい)塚(づか)繁(しげ)雄(お)さんは,福田首相がこの問題の追求にそれほど熱心であるように感じられなかったと話した。
- 福田首相が辞意を表明
- 9月1日,福田康(やす)夫(お)首相が記者会見を開き,突然辞意を表明した。
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