神奈川大学時代と大学中退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:23 UTC 版)
「浜田省吾」の記事における「神奈川大学時代と大学中退まで」の解説
1972年、1浪して神奈川大学法学部に入学する。音楽一本というより、法律の勉強でもして、世の中の悪と戦おうと意気込んでの上京であった。華やかなキャンパス・ライフを夢見ていたが、まだ学生運動が盛んな時代で、大学はロックアウトされたり、ストライキで休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと次第に感じ始める。大学時代は道路工事のドカチンや、自動車のバッテリー工場などのアルバイトで油にまみれる。同じように上京して大学生活を送っていた町支寛二らと再会し、一緒にバンド活動を始める。 20歳のある日の夏、大学の正門前にあった下宿で、ザ・ビーチ・ボーイズの「サーファー・ガール」に影響を受け、「二人の夏」を作った。間奏はビーチボーイズの「Summer Means New Love」にそっくりであった。 町支達に聴かせると、ブリティッシュ・ロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴くウェストコースト風のサウンドに「これは良いよ」と絶賛された。「あの時、けなされていたら曲作りは止めていたかも知れない」と話している。 1973年、音楽活動にのめり込み大学中退。両親には「1年間だけ休学させてほしい」と伝えたが、気持ちとしては辞めたも同然だった。下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学のセクトと他校から来たセクトとの激しい内ゲバが発生。火炎瓶が飛び交い、傷ついた学生達がキャンパス内に転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見ていた。このことで「もうすべてが終わった」とはっきり実感する。 同年秋、広島に戻り、「広島フォーク村」の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴」を結成。愛奴結成時、既にギターは町支寛二と青山徹、ベースは高橋信彦に決まっていた。残ったドラムとキーボードを浜田省吾と山崎貴生(グルックス当時はギター担当) とジャンケンで决め、浜田がドラム、山崎がキーボード担当になった。青山徹の江波の実家の屋根裏部屋を借りて、ピザ屋のウェイターのアルバイトをしながらバンド練習の日々を過ごす。愛奴の初ライブは天満屋デパート屋上。ライブはデパートの屋上が多く、他に町内の催し物や地元のテレビ番組で演奏したりした。後に柳ジョージ&レイニーウッドに参加する上綱克彦、石井清登らはこの時代の音楽仲間。この年冬、「広島フォーク村」の先輩でCBSソニーの広島営業所に勤務していた蔭山敬吾にヤマハ広島店でバッタリ会う。蔭山は広島地区での営業実績が認められ、異例の本社制作部への異動が決まっていて、「バンドやってるんだって?テープができたら、持っておいでよ」と言われた。天満屋サテライトスタジオでのライブをNHK広島のプロデューサーが耳にし、NHKのスタジオで、五曲レコーディングする。吉田拓郎が広島から出たことで、関東・関西という二つの大都市圏以外の地方からもスターが生まれるという認識を持たれ、特に地方局のディレクターは、地方にも埋もれたアーティストがいる、発掘したいという意気込みに溢れた。1970年代に地方都市のディレクターの尽力で、地方からアーティストが世に出たのはこうした事情によるもの。
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