神奈川大学の建学精神の神髄解明-高山岩男「呼応の原理」
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戦争協力の廉で公職追放され、静岡県浜名湖畔で隠遁していた京都学派哲学者高山岩男は、米田吉盛の熱心な要請により、1952年より神奈川大学法経学部教授として在籍することになる。1960年代、世界的にベトナム戦争への嫌悪感から反米主義が起こり、日本の多くの大学では新左翼等の学生運動が起こる。1963年に米田吉盛の要請で高山岩男は『神奈川大学の建学精神の神髄解明』を纏め、その中で、質実剛健(保守)精神と積極進取(革命)精神の両精神がダイナミックに衝突する事により真の進歩が齎されると論じている。しかし、米田の中正堅実の願いとは裏腹に神奈川大学でも学生運動が起こり、1968年3月 米田吉盛学長「学生諸君が指摘した事は首肯に値するものがあり、学生諸君の純心な心情を察知するに十全でなかった事、最終責任者としての責任、これらの責任を痛感する」とする学長声明を発表して学長を辞任する。学長職の辞任は、学生の主張を重んじた米田吉盛の中正堅実精神の現れであった。米田吉盛の提唱した「質実剛健」と「積極進取」神奈川大学建学精神の主張は、高山岩男の「呼応の原理」に沿うものであり哲学的裏付けを得た。[要出典]米田吉盛の提唱していた建学精神と、高山岩男の呼応の原理は、一致した事になるが、偶然の一致か、影響を与え合ったのか定かでない。
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