社会工学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:27 UTC 版)
鈴木は「合意形成の必要性」から社会工学の基礎にゲーム理論を位置づけ、「社会の工学化」と「工学の社会化」に着目した。東京工業大学の複数学部計画における社会工学部構想に情熱を持って取り組み、「文部省や大学当局に提出する書類を山のように書いた」という。依頼されて提出した「社会工学私見」は大山義年学長から全学教授会で配布され、これは著書(鈴木 2007, pp. 292–296)にも全文を掲載している。また、『経済セミナー』に「社会工学の誕生」という解説も執筆している。 鈴木は社会工学科に所属したことから計画について考えるようになり、1975年には『計画と倫理』を出版する。1976年に中村健二郎と共著で『社会システム』を出版し、「社会工学的な分野の柱石」と評価された。この頃『週刊東洋経済』の企画で、岡本哲治との対談、江藤淳・大木英夫[要曖昧さ回避]・公文俊平との四者会談に参加している。社会・経済システム学会へ入会する際に専門をゲーム理論と記してもらった鈴木であるが、これらの対談では社会工学者としての意識で臨んだという。 一方で、助手の中山幹夫ら研究室メンバーと水資源計画の他部門間配分問題に取り組み、神奈川県の酒匂川開発事業を分析する。シャープレイ値と仁を比較し、実務家の支持を受けた仁を用いている。この研究を県庁の資料提供者に送ったところ長洲一二神奈川県知事にも伝わり、鈴木は「西丹沢地区開発の基本構想」のメンバーや神奈川県総合計画審議会の委員を務めることになった(後者の会長は都留重人)。また、経済同友会と大蔵省が他の教員に依頼していた東南アジアの社会調査を、鈴木や学生も手伝っている。 鈴木は理学部情報科学科に移ってから、情報科学専攻、システム科学専攻、社会工学専攻、経営工学専攻といった4つの専攻の大学院生を受け持った。これは社会工学部構想の理念を残そうという意識の表れでもあった。後年「社会工学」という言葉があまり使われなくなったことに対して、自著で「理念が一般化して、社会工学という包括的な言葉はその必要がなくなったからと思いたい。」と記している。また、「社会の工学化」に対して「工学の社会化」が軽んじられていることを憂いている。
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