社会市民連合・社会民主連合とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 社会市民連合・社会民主連合の意味・解説 

社会市民連合・社会民主連合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:10 UTC 版)

菅直人」の記事における「社会市民連合・社会民主連合」の解説

1977年江田三郎要請受けて社会市民連合参加した が、市川房枝から反対され「参加民主主義をめざす市民の会」から退会した社会市民連合では江田とともに代表に就任同年7月第11回参院選東京都選挙区から出馬した落選。 翌1978年田英夫らが合流した社市連は社会民主連合となり、副代表就任1978年度版の平凡社百科年鑑市民運動家として掲載された。 1979年10月7日行われた第35回衆院選旧東京7区から社民連公認立候補するも、次々点で落選したこの頃経済的に苦しく弁理士業務傍ら補習塾を開いていた。 衆参同日選挙となった1980年6月22日第36回衆院選では、前回を9近く上回る票を獲得し1位で初当選当時朝日新聞社石川真澄記者は、自宅選挙区近くだったこともあり、裏方の手伝いをし、当選後自宅が来ることがあった。些細な雑談の折に、石川記者は「甘いマスク上手に隠しているが、頭のいい勉強家」であると感じている。マスコミは「政治家秘書二世官僚ではなく労組宗教団体支援持たない、いわば『顔のない男』が激戦区勝ち抜いた」「市民選挙有効性実証と書き立てた土地問題税制などを中心に政府鋭く追及する市民派論客として知られるようになっていった。1981年には丸山ワクチン不認可問題追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢見せた1983年12月18日第37回衆議院議員総選挙当選2期目)。 1985年社会民主連合副書記長兼政策委員長就任1986年7月6日第38回衆議院議員総選挙当選3期目)。この総選挙社会民主連合は4議席獲得したが、選挙直後2人ずつ日本社会党会派民社党会派分かれて所属することになり(その結果民社党会派日本共産党会派を数で上回り議会ポスト共産党会派に渡すことを阻止した)、社会党会派属した。この形式は、1990年総選挙まで続いた1990年2月18日第39回衆議院議員総選挙当選4期目)。 1992年6月13日PKO国会において、衆議院本会議中西啓介議院運営委員長の解任決議案賛成討論行ったが、制限時間超過し議長発言中止命令無視して演説続け衛視壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法成立の際に激しく抵抗した

※この「社会市民連合・社会民主連合」の解説は、「菅直人」の解説の一部です。
「社会市民連合・社会民主連合」を含む「菅直人」の記事については、「菅直人」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「社会市民連合・社会民主連合」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「社会市民連合・社会民主連合」の関連用語

社会市民連合・社会民主連合のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



社会市民連合・社会民主連合のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの菅直人 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS