社会復帰センター開設
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「サンパウロ日伯援護協会」の記事における「社会復帰センター開設」の解説
1973年度から援協の実費診療所に精神科が設けられたが、週一回の定期診療では対処できず、入退院を繰り返す患者専用の施設建設が提案されるようになった。同年、最大のサンパウロ州立精神病院のジュケリー病院が入院患者の整理を実施し、3,000人前後の比較的軽症の患者が退院処分を受けた。その結果、同病院に入院していた日系患者も相当数が退院させられ、いつ病状が悪化するとも知れず、援協を頼って来るようになった。翌74年10月にはカーザブランカ精神病院から援協に入院患者の引き受けや日本帰国への協力が要請された。この依頼を引き受けたのを機に、援協は日系の精神疾患者の実態を調査し、サンパウロ州の36におよぶ精神病院には日系患者が426名も入院していることが判明した。彼らの多くは退院しても引き取り人も行く宛てもない状態であった。また、施設外で家族の保護下にある精神障害者を加えれば、その人数は数倍にのぼると推定され、日系人口の約0.4%に達すると見込まれた。 1975年、援協へ複数の土地寄贈があり、精神障害者の社会復帰センター建設が期待されたが、中沢援協会長は一民間団体が取り組むには大きすぎる事業とし、慎重論を唱えた。同年4月、中沢援協会長へブラジル日本文化協会への就任要請があり、これ受諾すると同時に援協会長を辞任した。暫定的に竹中正副会長が会長代行を務めることになった。そして、翌5月、第16回定期総会で行われた会長選で竹中正は三代目援協会長に選ばれた。竹中新体制は精神科患者対策を中核に事業を進めることを決議した。 1975年8月23日、福田赳夫副総理がサンパウロを訪問し、日系社会の事情説明会を受けた。この時、竹中援協会長は「リハビリテーション・センター建設」への援助を要請し、日本政府からの援助の確約を得ることに成功した。同年内に援協は建設予算、運営予算、図面等の必要書類を総領事館を通じて外務省へ送付し、1976年度日本政府予算に提出予算のほぼ全額(3240万円)が計上され、下付されることになった。サンパウロ市近郊のグアルーリョス市内に精神障害者社会復帰センターの建設予定地が選定された。この土地は寄贈もしくは破格の値で援協に売却されたものであった。そして1976年5月8日、定礎式が行なわれ、これを機に一般から愛称を募集したところ、162件の応募があり、その中から「やすらぎホーム」の名称が選ばれた。 1977年3月19日、やすらぎホームは完成した。僅か10ヶ月という短い工事期間であったが、当時の高いインフレで建設資材が高騰し、建設費は当初の予算280万クルゼイロを上回り、最終的には320万クルゼイロに達した。完成時の敷地面積は6万2,000平方メートル、建物面積906平方メートル、定員50名(男子療棟9室33名、女子療棟5室17名)であった。初代センター長には佐藤敦夫が就任した。
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