石油の全面禁輸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
「ABCD包囲網」および「ベノナ#解読で判明したこと」も参照 8月1日、アメリカは対日貿易制限の具体的内容を発表し、「米国の国防の許す範囲内で、日本が35~36年度に購入したと同量までの低質ガソリン、原油および潤滑油については輸出許可証および凍結資金解除証を発行。その他の通商は、原棉と食糧を除いて、全面的に不許可」とした。しかし、その後、対日石油輸出や石油取引支払いのための凍結資金の解除は実際には許可されず、アメリカは石油の全面禁輸に踏み切ることになった(そもそもアメリカは全面禁輸令など出していないことには注意を要する)。 石油の輸出管理システムが構築されていたにもかかわらずなぜ全面禁輸になったのか、これには世論の圧力を原因とする説、対日強硬派の官僚たちの不作為により管理システムが機能しなかったという説(ルーズベルトやハルは9月まで石油の禁輸を知らなかったとされる)、ディーン・アチソン国務次官補が独断で資金の凍結を解除しなかったという説、日本の「南進」「北進」を抑止するためのルーズベルトの確たる意志とする説、あるいはヘンリー・モーゲンソー財務長官の影響を指摘する説などがあり、議論が続いている。アメリカが全面禁輸を発動した理由は現在も謎である。ロナルド・リンゼイ(英語版)駐米英国大使は「ルーズベルト大統領は戦争を避けるため、経済封鎖に固執していた」と述べている。 日本側はアメリカの強硬な態度を想定しておらず、佐藤賢了軍務課長は、日本軍はすでに北部仏印に進駐しており、それが南部に進むだけで日米戦争にはならないと判断していたと述べている。また、7月25日の『機密戦争日誌』には「当班、仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」とあり、資産凍結が伝わった26日にも「当班全面禁輸とは見ず、米はせざるべしと判断す」と記されているが、全面禁輸を受け26日の日誌の欄外に「本件第二〇班の判断は誤算なり。参謀本部亦然り。陸軍省亦然りなり」と注記した。 当時、日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に産油地帯の蘭印を攻略するという選択肢が台頭することになる。そして、蘭印攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、当時米領だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、それは必然的に対米開戦を意味する。結果的に、南部仏印進駐と対日全面禁輸は太平洋戦争への岐路となった。
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