相州三浦住三浦助伝記
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1958年に佐脇栄智は内閣文庫の万治版『北条五代記』の表紙見返しに浄心の子の茂次(法名清涼院浄閑居士)までの系図の書き入れがあり、出典が『静幽堂叢書』と記されていることを指摘した。同叢書は宮内庁書陵部蔵本で、第17冊伝記9に『相州三浦住三浦助伝記』と題して書き入れの出典とみられる家譜、碑文の写し及び浄心の著書目録を載せている。 家譜は正徳5年(1715年)12月付、三浦次郎左衛門尉茂久・三浦五郎左衛門尉茂済の花押付きの連署がある、公的な場に提出されたらしき体裁のもので、内容は『北条五代記』寛永版をもとに、過去帳などで生没年・没年齢を補ったものと思われ、上記の晩年の後伝が付されている。家祖は浄心の祖父・茂忠(義忠)とされ、茂忠は「道寸に近き親類」で、もと義忠といったが、早雲(氏茂)の幕下に属したとき「茂忠」に改名した、とする。以下、浄閑茂次(元和9・1623-元禄9・1696)までの系譜を記している。 碑文写しには、「元文五歳次庚申(1740年)上巳日 従五位下大学頭林信光識/三浦五郎左衛門尉茂斎敬立/奉勅前住永平東胡八十歳書」とあって、内容は正徳5年の家譜をもとにしたものとみられ、普門院にあった墓碑のうち新碑とほぼ同文を含んでいる。茂忠(義忠)を「三浦時高の弟高信之子茂忠初名義忠」としており、三浦介家の親類であるとする伝が詳しくなっている。 出口氏の祖先を三浦導寸と同統とする伝は、近藤瓶城が『史籍集覧 慶長見聞集』の奥書において小宮山綏介が謬説としていることを紹介しており、『北条五代記』や『一話一言』の伝(後出)にもそぐわない。また『一話一言』は三浦義周を三浦義澄の遠孫とし、寛政の呈譜を嫡流についてまとめた『略譜』(1799年 - 1812年頃成立)には「三浦大助義明後胤」と記されており、近藤瓶城は浄心の先祖筋について「三浦の満昌寺(三浦義明)より出てしと云」としているが、『北条五代記』にはみえず、『寛政譜』は三浦義周以前の系譜を載せていない。 なお、『相州三浦住三浦助伝記』については、1884年の近藤瓶城の『史籍集覧 慶長見聞集』奥書に「碑文及家記」として、また1885年の小宮山綏介『参考録余』第37集および小宮山が引用している栗原信充『先進繍像 玉石雑誌』に「茂正の孫茂久か記」として内容に言及がある。
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