後伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 21:11 UTC 版)
向崎甚内については、処刑地となった浅草・鳥越の墓石ないし祠が江戸の地誌に取り上げられ、後伝が発展した。 菊池沾凉『江戸砂子』に、甚内は捕まったとき瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草橋にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。 馬場文耕『皿屋鋪弁疑録』では、辻斬り・盗賊で、お菊の父という設定になった。 文化・文政期の津田敬順『遊歴雑記』は、甲斐武田氏の臣幸坂弾正の子で幼名は甚太郎、武田氏滅亡後、祖父の対馬に連れられて摂津国芥川へ逃れたが、11歳の時に剣豪宮本武蔵の弟子となって10年間修業を積んだ。だが甚太郎は次第に己の腕前に驕って辻斬りを働き、追い剥ぎを働くまでになったので、武蔵によって破門され、相模国で盗賊の頭目になった。 また『遊歴雑記』において甚内は、吉原の有力者だった庄司甚内(甚右衛門)、古着市場を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。 江戸時代の後期から明治の初期にかけて、歌舞伎の演目にもしばしば登場している。
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