成書過程とは? わかりやすく解説

成書過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:08 UTC 版)

漢書」の記事における「成書過程」の解説

『漢書』制作は、班彪(はんひょう)が司馬遷の『史記』を継いで書いた後伝』に始まる。班彪の子班固が『史記』と未完の『後伝』を整理補充して『漢書』制作した。ただし、その八表と天文志は未完であり、和帝のとき、班固の妹の班昭と馬続によって完成された。

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成書過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:38 UTC 版)

明史」の記事における「成書過程」の解説

1645年順治2年5月馮銓総裁として明史編纂するために明史館が設置された。馮銓らは史料収集着手したが、天啓年間実録一部及び崇禎年間実録散逸していたため、1648年順治5年9月には各役所対し同時代檔案公文書)を礼部に送るように命じた。それでも史料不足していたため、1651年順治8年)閏2月には民間の邸報(明代官報のようなもの)の高価買取行い史料補遺努めた実録最終的に入手できなかったため、1655年順治12年2月には学問担当役人に邸報や民間記した歴史書購入させ、その収集成績勤務評価反映させたが、各役所史料収集注力しておらず、編年体草稿完成したのみで明史編纂業務中断された。その後1665年康煕4年10月明史館の業務再開されたが、顕著な成果を見ることなく再度中断されている。 1679年康熙18年)、本格的に明史編纂事業再開決定すると、紫禁城の東門外明史館を設置監修内閣大学士である徐元文総裁翰林院掌院学士方藹と右庶子張玉書が任じられ編纂員には前年実施され臨時博学詞の科(試験合格者50人があてられた。編纂過程では康熙帝自らも草稿を閲覧後、正確公正な後世伝えられる内容にすることを命じている。康熙帝明史完成重視していたが、史料不足や内容正確性重視したため、編纂事業遅々としたものであった1717年康熙56年8月4日に「いまだに記されていないことが多い。公式の記録がないため誤り非常に多い。そのため、大臣編纂急がせようとしているがそれは無理である。急いで編纂する要はない。」と、64歳となり自身存命中に明史完成困難なことを悟っている康熙帝は、正確性重視再度命じている。康熙帝崩御その5年後、明史全巻完成したのは1735年雍正13年12月全巻印刷されたのは1739年乾隆4年7月であった明史館が初め置かれてから90年以上、康熙帝先の発言からも20年上の月日経っていた。

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