監督の分身として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 10:20 UTC 版)
捕手は野球の守備位置の中で唯一投手に正対し、グラウンド全体を見渡すことが出来る場所に居る。そのためボールカウントやアウトカウント、得点差などを考慮し、打者の意図を見抜き、味方野手へシフトや送球先を指示する役割を担っている。守備陣を指揮しチームの守りに責任を持つ捕手のこの役割は、アメリカでは、「フィールドのキャプテン」 “a captain of the field” や「フィールド上のリーダー」 “a leader on the field” とも呼ばれ、日本では、「守りの要」、「グラウンド上の監督」とも呼ばれる。野村克也は捕手の役割と機能を評して「キャッチャーは監督の分身」と語っており、さらに捕手は監督の分身としての役割を担うことと、投手をリードすることを通して他者を動かす術を学ぶために、捕手出身者は野球監督に向くとしている。 実際にプロ野球の監督には捕手出身者が多い。 MLBでは、コニー・マック、ヨギ・ベラ、ジョー・トーリ、ジョー・ジラルディなど捕手出身者が極めて多く、2010年のシーズンにおいては、メジャーリーグ30球団の監督のうち12人が元捕手である。NPBでも、野村、上田利治、森祇晶などの多数の優勝経験を持つ監督が捕手出身であり、日本選手権シリーズの優勝監督(1950〜2010年)は、捕手出身の監督の優勝回数が最も多い。 捕手がチーム全体の守備を指揮し統率する現在の捕手の役割を日本に初めて導入し浸透させたのは、読売巨人軍の監督を務めた川上哲治である。川上は、1961年に巨人の監督に就任するに当たり、メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースの戦法を導入することを決意し、アル・キャンパニス著『ドジャースの戦法』(“The Dodgers’ Way to Play Baseball” 1954, 邦訳は内村裕之, 1955〜1957年ベースボールマガジン連載、1957年出版)をチームの教科書に使用し、サインプレーや守備の連係プレイを日本に初めて導入した。1959年から巨人の正捕手を務めていた森昌彦(森祇晶)も、川上の指示により同書を読まされ、同書にある、「捕手として絶対に必要な条件は、守備陣を指揮する能力」であり「捕手は全守備陣を引き締める重要なネジである」とする記述に、森は、「目からうろこ」の思いであり、「頭の中で音が鳴るほどの発想の大逆転が起こった」と後年述べている。同書を教科書として、巨人はドジャース戦法の練習を何年間も積み重ねて身に付けた。その後、川上監督・牧野茂ヘッドコーチを中心に正捕手・森を「司令塔」とする巨人は優勝を重ねて常勝チームとなり、巨人の圧倒的な強さの秘訣はドジャース戦法にあるとするスポーツ記事が増加したことにより、1960年代後半から他の各チームも巨人の戦法を参考にするようになったため、日本のプロ野球の捕手は、投手を含む守備陣全体の指揮官・司令塔の役割を担当するポジションとなっていった。 1960年代以降、NPBでは監督・コーチによるコーチ・ミーティングに、選手の中で捕手だけが参加し、対戦チームのデータの分析や、相手打者の攻略法と自チームの守備のフォーメーションなどの作戦の打合せに参画することが多い。「近代野球を考察すると、捕手とは、スピードへの欲求から頭脳的なプレーを余儀なくされ、必然的に進化を遂げたポジションだったことがわかる」と森は述べている。
※この「監督の分身として」の解説は、「捕手」の解説の一部です。
「監督の分身として」を含む「捕手」の記事については、「捕手」の概要を参照ください。
- 監督の分身としてのページへのリンク