監督の変遷
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当番組のような、オムニバステレビドラマ物のドラマにはチーフディレクター(総監督)なるものは存在せず、その作品の監督独自の世界観を有する。だが参加する監督の中には複数回メガホンをとる者がおり、「世にも-」が代表作の一つとなっている監督もいる。ここでは歴代の監督たちの動向を振り返る。 1990年4月19日 - 1992年12月7日 レギュラー放送として木曜日の夜8時に放送していた時である。 初回(共同テレビ制作)の演出は鈴木雅之(現:フジテレビ役員待遇第1制作センターGD、旧:ドラマ制作部)、星護、小椋久雄の三人であった。 長年番組に携わっていた石原隆曰く「星護さん(の作品で印象に残っているの)は『噂のマキオ(第1シリーズ第1回)』。彼はギミックが効いてるロジカルな話がうまい。鈴木雅之さんは、『代打はヒットを打ったか?』。彼は『奇妙』にコメディを持ち込んだ最高峰。落合(正幸)さんは『リフレイン』。人間に気持ちが乗っていくホラーが得意なひと。小椋さんは『帰れない』。『奇妙』にヒューマンドラマを持ち込んだ」と映画の特別編も監督したこの四人をエポックメイキングになった作品を基に評価している。 その後、連続ドラマでは星田良子・河野圭太など共同テレビの演出陣に加え前述の各制作会社が切磋琢磨し、久世光彦・小林俊一・田中秀夫などのベテランや飯田譲治・堤幸彦・雨宮慶太などすでに劇場映画・テレビドラマで活躍していた監督に加えて岩井俊二・河崎実・本広克行など若手の監督も積極的に登用していた。 「ホーム・ドラマ」を監督した辻野正人は、それまでにっかつで助監督として本番組に参加していたが、以前石原が担当していた東映不思議コメディーシリーズで監督・助監督を務めていた縁から監督に起用された。 1992年12月30日 - 2003年9月18日 放送が単発のみになり、共同テレビ以外の制作会社のスタッフが参加するのは一部作品のみとなった。 ここからバラエティ番組などで活躍するディレクター(片岡K・李闘志男・杉本達)などが演出陣に加わり、さらに2001年元日「SMAPの特別編」の石井克人・佐藤嗣麻子、同年「秋の特別編」の中島哲也といった映画監督、2002年「春の特別編」のCMディレクター山内健司など外部で活躍する人材も起用した。 落合正幸は、監督作品に脚本も書くようになりそれはその後の脚本家としての仕事としての足掛かりにもなる。落合が共同テレビを2003年に退社し、同時期に若手演出家が参加するようになり、番組の内容性が少しずつ変化していくようになっていった。 そして、ほぼ毎回参加していた落合の代わりに、この番組がドラマ初監督の植田泰史が監督作品数を増やしていく。植田を始め、演出補として参加していた村上正典・都築淳一・高丸雅隆のほか、ドキュメンタリーを手がける松木創、「リーガル・ハイ」の石川淳一、「アンフェア」の小林義則など今やフジテレビ系ドラマに欠かせない演出陣を加えて現在に至る。 2004年には君塚良一が人生初のドラマ演出を脚本兼任で成し遂げた。
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