皇帝菩薩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 09:14 UTC 版)
普通元年(520年)に改元した。それ以降は次第に政治的には放縦さが目に付くようになり、それに反比例して武帝が帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身も仏教への関心を強めた。 ついには大通元年(527年)以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した。その結果、南朝梁の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が再現されてしまう。また朱异に代表される寒門出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱の様相を呈してきた。 ただ、武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称された。このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来」との対比において、南朝の仏教の様子を表す称号として評価されている。 また南朝梁は東南アジアや西域諸国・百済との交渉が盛んで、それら諸国からの武帝宛国書では仏教用語を用いて武帝を菩薩扱いし、南朝梁を礼賛していたといわれ、武帝は当時の国際社会において仏教信仰でも高名であった。日本(倭国)へも百済を仲介して影響がある。 「職貢図」も参照 大通元年(527年)には曹仲宗・韋放・陳慶之らに北伐を命じ、北魏の大軍に勝利した。大通3年(529年)、北魏の北海王である元顥が南朝梁に亡命してきたため、陳慶之に彼を北魏に送るよう命じ、陳慶之は7000人の寡兵で洛陽を陥落することに成功した。すぐに北魏の爾朱栄に洛陽を取り返されたが、これは南朝で最後の北伐成功(洛陽・長安の二都のどちらかを奪還)になる。 大同11年(545年)6月、陳霸先・楊瞟・蕭勃らに命じて、万春を建国した李賁を討伐させた。李賁は嘉寧城に逃げた。
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