皇帝直属の常備軍創設構想
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「霊帝 (漢)」の記事における「皇帝直属の常備軍創設構想」の解説
中平4年(188年)10月に霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われている。当時王宮警護の近衛は存在したものの、大規模な常備軍は存在しなかった。必要に応じ地方から兵を徴集して軍を編成していたのである。しかも地方から徴集される兵の大半は、農民から徴兵した兵士であったため質も低かったと推測される。そのため「戦闘を専門とした質の高い近衛軍」を編成し常駐させるのは、歴代皇帝の悲願でもあった。霊帝自ら無上将軍と名乗り、その下に西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官を置いたのはそのためと思われる(指揮官の中には若き日の曹操や袁紹、淳于瓊がいた)。 西園八校尉に関する具体的な軍編成規模は解明されていないが、1万人規模相当であったのではないかと考察されている。この近衛軍の編成に必要な経費負担が後漢の国庫を逼迫させたが、のちに曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、魏の国軍編成の根幹としており、相当の完成度であったと考えられる。魏以降の歴代中国王朝でこの制度は継承され、中国の国軍編成制度として受け継がれていった。霊帝が売官を行ったのは、近衛軍編成のための費用に充足させるためではなかったかとも言われている。実際には創設途上で霊帝が死去したため後漢での完成を見ることなく、曹操の手で実現されることとなる。 また、霊帝の悪政の象徴とされてきた売官・売爵政策についても、単純な私的遊楽のための蓄財ではなく、常備軍構想の財源や光武帝時代に縮小された帝室財政を回復による皇帝権威の回復政策であったとされている。ただし、その方策も目指した路線も後漢王朝体制と対立するものであり、後世まで悪政として残ることになったと考えられている。
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