白秋の死から「多磨」終刊まで
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「持田勝穂」の記事における「白秋の死から「多磨」終刊まで」の解説
1943年(昭和18年)38歳 - 白秋の死後「多磨」は発行人・北原菊子、編集人・中村正爾のもとで10年間続けられ、勝穂も作品発表を続けた。 1944年(昭和19年)39歳 - 10月、佐賀県唐津市満島に疎開。12月、六女嶺子生まれる。 1945年(昭和20年)40歳 - 3月、入営鹿児島志布志湾防衛の為配属。6月博多空襲で実家焼失。9月に復員。唐津虹ノ松原へ転居。 1947年(昭和22年)42歳 - 歌集「雲表」刊行(南風書房)。『多磨』七月号に、歌集「雲表」批評(鹿児島寿蔵、薮田義雄、与田準一)掲載。箏曲「春のことぶれ」作詩、筑紫歌都子作曲。 1948年(昭和23年)43歳 - 日本歌人クラブ発起人となる。9月、疎開先より博多へ帰る。歌集「海光」刊行(多磨叢書、叡智社)。交声曲「新秋」作詩、筑紫歌都子作曲。電気ホール公演。福岡県警文芸誌「暁鐘(月刊)」選者(1995年8月まで続ける)。 1949年(昭和24年)44歳 - 日本歌人クラブ総会にて九州地方幹事就任。交声曲「阿蘇」作詩、森脇憲三作曲。九大ユーロステルラ合唱団により初演。 1950年(昭和25年)45歳 - 交声曲「別離」作詩、森脇憲三作曲。九州大学主催により初演。 1951年(昭和26年)46歳 - NHK福岡(JOLK)ラジオ随想「白秋と雀」放送。町名統合に参与の際、持田家に隣接していた恵比須神社の『須』を生かし『洲崎町』から『須崎町』とした。 1952年(昭和27年)47歳 - 『多磨』終刊号発行。目次に並ぶ歌人名は持田のほか、鈴木英夫、初井しづ枝、佐野四郎、島内八郎、荒木暢夫、湯浅那羅、中村正爾、吉野鉦二、泉甲二、若林牧春、宮柊二、鐸静枝、鐸木孝、桂静子、鈴木幸輔、吉田恵弘、大内規夫、松本千代二、野村清、木俣修。以後、木俣修と共に「形成短歌会」を立ち上げる。九州電力文芸誌「文化期集」選者となり、1995年3月まで続く。
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