畳敷き詰め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
平安時代の畳みの敷き方は単独か二行対座(画像620)が基本であったが、鎌倉時代の絵巻の中に畳みが追い回しに敷きが現われる。画像a80が『法然上人絵伝』にある例である。部屋の中央だけ畳みが敷かれていない。『蒙古襲来絵詞』で竹崎季長が恩賞奉行の安達泰盛との面会シーンもよく知られる。ともに描かれたのは鎌倉時代である。永和2年(1376)に伏見殿小御所で光厳院御十三回忌結縁灌頂が行なわれたときの指図(画像a13)にも見られる。 室町時代でも本当に敷き詰めになるのは小さい部屋であって、主室のような大きな部屋は畳みが追い回しに敷き詰められる。応仁の乱以前にさかのぼる現存する最古の方丈建築、東福寺塔頭・龍吟庵の方丈は両脇の12畳の間は畳みが敷き詰められているが、中央の24畳相当の「室中」と呼ばれる主室は現在も追い回し敷きになっている。しかし二条城二の丸御殿の大広間は畳敷き詰めである。 その過程で重要な点は、藤田盟児がその畳みの並べ方で柱間寸法を類推するように、寝殿造で柱間寸法の基本とした8尺~10尺から7尺程度へと変化していることである。応仁の乱以降はさらに6.5尺が標準となる。これは現在の京間と同じサイズである。川本重雄は、柱間の縮小という現象は、単に柱聞の問題だけではなく、内法長押の高さや天井の高さなど建築の規格全体の変更に関わる問題であり、儀式用の建築規格から居住用の建築規格に変わっていく営みがそこには現れているとしてこう云う。 この建築規格の変化に代表される、儀式用建築を居住用建築へ変えていく工夫の積み重ねが、実は寝殿造から書院造への変化の核心だったのではないかと著者は考えている。 川本重雄は鳥居障子について、儀式のために作られた寝殿に、日常的な生活空間にふさわしいヒューマンスケールの建具を収めるための工夫と述べていたが、やっと建物自体ヒューマンスケールになったということになる。関野克が寝殿造について「日常生活とは全く関係ない方面から何等かの方法で、住建築が与へられる」と起こる「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」であり「全く機械的な造形物の中に流体の如き生活が流れてゐた」と述べたがそれが少し解消されたということにもなる。
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