異国警固体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
詳細は「異国警固番役」を参照 執権・北条時宗は、このようなモンゴル帝国の襲来の動きに対して以下のような防衛体制を敷いた。 1271年(文永8年・至元8年)、北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くように命じ、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた。当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として鎮西への下向を命じたのであった。これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次九州に土着していくこととなる。九州に土着した東国御家人には肥前の小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤は肥前千葉氏の祖となっている。 1272年(文永9年・至元9年)、北条時宗は異国警固番役を設置。鎮西奉行・少弐資能、大友頼泰の二名を中心として、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた。 同年2月、北条時宗は後嵯峨上皇没直後の二月騒動で庶兄・北条時輔等を粛清し幕府の統制を強化した。 なお、『高麗史』によると、日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思われる記述があり、以下のような事件があった。 同年7月、高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた。曹子一は元に発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した。高麗国王・元宗は張暐を派遣してクビライに対して曹子一の無実を訴え解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された。 1273年(文永10年・至元10年)11月、幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した。
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