異国調伏祈祷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
文永の役に先立つ1271年(文永8年・至元8年)10月25日に、後深草上皇が石清水八幡宮へ行幸して異国の事について祈願しており、文永に際して、亀山上皇は石清水八幡宮へこの報賽のため自ら行幸、参拝し徹夜して勝利と国土安穏の御祈謝を行った。翌9日には賀茂・北野両社へも行幸している。 弘安の役においても朝廷から22社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所でも公卿・殿上人らの公家、上皇の身辺を警護する北面武士による般若心経30万巻の転読などの祈祷や持仏堂への供養が行われた。 朝廷や幕府は、元からの使者が来航した直後から石清水八幡宮や宇佐八幡宮などの主な八幡社、伊勢神宮、住吉大社、厳島神社、諏訪大社、東大寺、延暦寺、東寺など諸国諸社寺に異国調伏の祈祷や祈願、奉幣を連年盛んに行っていた。 幕府は弘安4年から翌5年にかけて、これら九州の諸社および伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布し、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じている。
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