畑地灌漑事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 23:15 UTC 版)
明治以来、台地上に水を引き水田を開く計画は度々立案されたが実現には至らなかった。昭和に入り、1938年に神奈川県が相模川河水統制事業に着手したことによって、ようやく開田計画が本格化した。相模川河水統制事業は、日本における河川総合開発事業の先駆けとなったものの1つであり、相模川に多目的ダム(相模ダム)を建設して電力開発を行うとともに、京浜工業地帯に工業用水を供給し、また相模野台地に農業用水を引いて約1,000haの水田を開くというものであった。総合計画の中核となる相模ダムの建設は1940年に着工され、第二次世界大戦の激化による一時中断をはさんで敗戦後の1947年に完成している。 農業用水路の建設はダム完成後の戦後のこととなり、食料増産のために当初の開田計画から約2,700haの畑地へ灌漑を行うものとされて、1949年に相模原開発畑地灌漑事業として着工された。この事業は1930年代にアメリカ合衆国で進められた「テネシー川流域総合開発事業」にならって「日本版TVA計画」と呼ばれ、10億円を超える国庫補助金や県費などを投入して1963年に完成した。 津久井町(現相模原市緑区)の沼本ダムで相模川から取水された用水は、城山町(同)の津久井分水池で横浜市・川崎市等への上水道水(京浜工業地帯への工業用水を含む)と分けられ、相模原市大野台(現南区)で東西の両幹線に分かれて台地南部の綾瀬町(現綾瀬市)や藤沢市にまで至った。県が建設した幹線水路や支線用水路、配水路の総延長は約93km、利用者組合が建設した支線・末端配水路は約71kmに達し、全体で相模原・座間・海老名・綾瀬・大和・藤沢の6市町にまたがる約2,700haの畑地を潤した。1953年に畑への通水が開始され、1958年頃に送水量が最大に達したが、それとほぼ同時期に相模原市や大和市、座間町(1971年に市制施行)などでの市街地化により、台地上の農地の宅地等への転用が急速に進行した。そのために農業用水路としての役割も急速に縮小し、1970年には利用者組合も解散して、実際には完成後の数年間に通水されただけに終わった。現在では、大野台以南の東西幹線水路の多くの区間がそれぞれ緑道緑地として整備されている。
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