甲野乙子事件
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1982年(昭和57年)1月末、大学3年生であった甲野乙子(仮名)は、甲野の通う大学の非常勤講師であった矢野暢の特別講義に出席した。その講義の終了後、甲野は大学内の学生食堂で矢野と話す機会を得て、東南アジア研究の話を中心に会話が弾み、自分が将来は研究者になりたい旨を伝え、甲野は矢野に自分の住所と電話番号を教えて再開を約束した。三度目の面会の際、大阪市内のホテルの地下街で夕食などを共にした後、矢野は「今日は疲れているから部屋で話の続きがしたい。」と切り出し、自分がチェックインしている同ホテルの部屋まで来るように申し向け、甲野はそれに応じて部屋に入った。 部屋に入ってからも東南アジアの話が続いたが、突然、矢野が椅子から立ち上がり、甲野の手を握ったので、甲野は矢野の手を振り払った。すると、矢野は「何で振り放った。」と怒鳴り、甲野が「男の人からいきなり手を握られたら振りほどいて当然である。」と答えると、甲野を平手で数回殴り、罵倒し始めた。甲野は泣きながら反論したが、矢野に罵倒と殴打を繰り返され、反論も止め、手を握られるままとなった。矢野は甲野の手を握りながら説得し始め、甲野の肩を抱こうとし、甲野がそれを拒もうとすると再び罵倒と殴打を繰り返した。また、矢野は甲野をベッドに座らせ、自ら着衣を脱ぎ、「君も裸にならないと対等ではない。」と着衣を脱ぐように求め、甲野が裸になると矢野は性交渉に及んだ。矢野は「性行為は対等な人間同士がやることであり、君と僕が性的関係を持ったことは東南アジア研究を目指す者同士の同志的連帯の証である。」などと言い、研究者になるために日常生活に到るまで指導することの同意を求めた。甲野は黙り込んでいたが、矢野が詰問してきたために同意をした。翌日、次に会う約束の日時を決めて別れた。 この日以降、甲野は、矢野に殴られた跡の治療にも行かず、矢野と会う約束以外では人目を避けて寮の自室に籠りがちになり、大学の授業に出ないことも多くなった。また、矢野と性的関係を持ったことには誰にも口外しなかった。 甲野は、矢野の勧めに従い、4月からアルバイトとして、卒業後は事務補佐員として矢野の研究室に勤務した。この間、何度か辞めたい旨を申し入れたが、その度に矢野が激怒し、殴るなどして撤回させられた。また、矢野との性的関係も継続させられ、甲野が婚姻した後も続いた。1988年(昭和63年)、甲野は他のアルバイトも矢野から性的関係を求められていたことや、第一秘書が自分と矢野との関係を認識していたことを知り、自分に対する対応が研究室ぐるみで行われていたと認識し、夫に対して告白するとともに、研究室への出勤を拒み、そのまま3月末に退職扱いとなった。その後、甲野は大学院に進学したが、矢野や関係者との接触を避けるために東南アジア研究の道を選択しなかった。
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