甲子園成績23勝3敗
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第8回選抜中等学校野球大会(昭和6年(1931年)春)……準優勝 ○11-0川越中学、○3-0第一神港商業、○3-0和歌山中学、●0-2広島商業 これが中京商業にとっても春夏通じて初めての甲子園であった。吉田は3試合連続完封をやってのけてチームを決勝へ導いたが、2点に抑えるも打線が広島商業エース灰山元治を打てず、広島商業の夏春連覇を許した。 第17回全国中等学校優勝野球大会(昭和6年夏)……優勝 ○4-3早稲田実業、○19-1秋田中学、○5-3広陵中学、○3-1松山商業、○4-0嘉義農林 東海予選では全6試合完封で甲子園に出場した。1回戦の早稲田実業戦では3点先行を許したがサヨナラ勝ちで救われ、そのまま4試合を完投で決勝へ進出した。嘉義農林も初出場でエース呉明捷を擁していたが、吉田はあっさりと完封し、初出場初優勝を成し遂げた。 第9回選抜中等学校野球大会(昭和7年(1932年)春)……ベスト4 ○3-1平安中学、○3-2坂出商業、○8-0長野商業、●2-3松山商業 夏春連覇を目指し順当に勝ち進んだが、準決勝で松山商業エース三森秀夫に投げ負け、夏の雪辱を果たされた。松山商業はこの大会で優勝した。 第18回全国中等学校優勝野球大会(昭和7年夏)……優勝 ○5-0高崎商業、○7-2長野商業、○4-0熊本工業、○4-3松山商業(延長11回) 高崎商業戦は1安打完封、熊本工業戦では途中で三塁手にまわった。決勝は9回1死まで3点差の楽勝ペースだったが、失策と3連打で同点とされた。しかし、延長11回サヨナラ勝ちで2度目の優勝投手となった。 第10回選抜中等学校野球大会(昭和8年(1933年)春)……ベスト4 ○3-0島田商業、○1-0興國商業(延長13回22奪三振)、○3-1享栄商業、●0-1明石中学 2試合連続完封と22奪三振、享栄商業との愛知県対決も制したが、明石中学エースの楠本保が立ちはだかった。中京商業は3安打しか打てず完封負け。明石中学の決勝点は吉田が与えた押し出し死球だった。 第19回全国中等学校優勝野球大会(昭和8年夏)……優勝 ○11-0善隣商業(ノーヒットノーラン)、○3-2浪華商業、○2-0大正中学、○1-0明石中学(延長25回)、○2-1平安中学 3連覇への道は厳しく、楽に勝てたのは1回戦のみであった。浪華商業戦では3回に三塁のバックアップに入った際、外野からの送球を顔面に受け、左マブタを3針縫ったが続投した。準々決勝は藤村富美男がエースだった大正中学を完封。そして3日後の準決勝は伝説の延長25回の死闘、明石中学中田武雄との壮絶な投げあいを演じた(→詳細は中京商対明石中延長25回を参照)。この試合で吉田は336球を投げることになったが、試合後に「明日の決勝では投げるのですか?」と尋ねる記者に、「明日はまた明日ですよ。今夜ぐっすり寝てみたら何とかなりましょう。」と言ってのけた。しかし流石に336球の影響は隠しようがなく、翌日の決勝では10四死球を献上、吉田としては「肩が言うことをきかず、ボールの行方はボールに聞いてくれ」との心境であった。それでも終わってみれば被安打2、失点1に抑え切り、前日の言葉通り本当に「何とか」してしまったその右腕には、不思議な神通力が秘められていると評された。
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