甲子園大会優勝まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 05:39 UTC 版)
古角は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(当時は勝浦町)で、旅館「なぎさや」を営む古角俊一の長男(他に弟が3人)として生まれた。古角俊一は、のちに勝浦町の町長を務めている。 古角は勝浦尋常小学校3年から野球を始め、当初は三塁手兼投手であった。和歌山県立新宮中学校に入学したものの、野球の強い和歌山市の中学に移りたいと考えていた。この時、「なぎさや」に逗留していた化粧品セールスマンが海草中学に伝手があり、これを通じて海草中の門を叩くことになった。1936年に新宮中学から海草中学に転校。和歌山県の南部は鉄道の敷設がかなり遅れた地域であり、勝浦港から大阪商船の那智丸で8時間かけ、和歌浦港に深夜2時に到着。和歌山市での寄宿先となる丸山家に向かった。丸山家は紀州徳川家御典医の流れで、当代も医師であった。海草中に転校した古角は、チームメイトとなる嶋清一と同級になり、優勝時のメンバー・真田重蔵も1938年に入学してくる。 古角が転校した時の海草中は、監督が長谷川信義(京都第二中学校~明治大学)に交代したばかりであった。これは長谷川の先々代監督の谷澤梅雄が明治大学卒で、その指示からであったという。古角は転校翌年の1937年、正中堅手兼三塁手の座を摑む。1938年に長谷川が応召、明治大学野球部監督となっていた谷澤梅雄の推薦で、明治大学在学中の杉浦清(中京商業~明治大学)が臨時監督となった。 迎えた最終学年の1939年の第25回大会で、嶋清一の5試合連続完封、うち準決勝、決勝を連続ノーヒットノーランするという活躍もあり、優勝を果たした。古角は一番・中堅のリードオフマンであった。
※この「甲子園大会優勝まで」の解説は、「古角俊郎」の解説の一部です。
「甲子園大会優勝まで」を含む「古角俊郎」の記事については、「古角俊郎」の概要を参照ください。
- 甲子園大会優勝までのページへのリンク