産業としての始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 07:34 UTC 版)
「ショールズ・アンド・グリデン・タイプライター」の記事における「産業としての始まり」の解説
ニューヨークにあるレミントンのオフィスで実演を行った後、1873年3月1日、2万4千台の追加生産のオプション付きで千台の契約を結んだ。この契約でレミントンはロイヤリティの一部を得る権利と1万ドルをデンズモアに要求したが、デンズモアとYostが創業する販売会社は販売独占権を持つことを許された。レミントンは工場の一部をタイプライター専門とし、そのための加工機械の再編成とタイプライターの再設計に数カ月を費やした。生産開始は9月で、市場に製品が出荷されるようになったのは1874年7月1日のことである。タイプライターの生産は、レミントンのミシン部門を監督していたジェファーソン・クラフとウィリアム・K・ジェンヌが監督した。再設計によってショールズの設計よりもさらに頑丈で信頼できるものになったが、ミシンの特徴をいくつか呈するようになった。外観は花模様のデコパージュ仕上げで、キャリッジリターンの操作をトレッドルで(足で)行うようになっていた。それでもこのタイプライターは十分な評価を行わずに生産を開始したため、初期の生産品は調整と修理のために早々に返品されることになった。 高価で故障が多かったため、1874年12月までに売れたのはわずか400台だった。通常のビジネスで採用してもらうには時間がかかるため、当初ターゲットとしたのは文筆家、牧師、弁護士、新聞編集者といった職業である。しかし、このタイプライターの価格125ドルは当時の個人の年収に匹敵し、これを購入して見合うほど文章を書く個人はほとんどいなかった。しかし例外もある。マーク・トウェインは最初にこの機械を購入した1人であり、これを "curiosity breeding little joker" と名付けた。1876年のフィラデルフィア万国博覧会にも出展したが、アレクサンダー・グラハム・ベルの電話の陰に隠れる形となった。トレッドルから手で操作するレバーに変更するなどいくつかの設計上・製造上の改良がなされつつ、1877年までに4千台が販売されている。1878年、レミントンは計量器製造業者であるE&T・フェアバンクス社に販売委託するようになった。 改良型の Remington No. 2 は1878年に登場した。この新規種は大文字だけでなく小文字も印字でき、従来機種の大きな欠点を克服している。当時アメリカでタイプライターを大量生産していたのはレミントンだけであり、American Writing Machine Company が1881年に対抗機種を発売するまではレミントンの独占状態だった。競合企業の登場により、レミントンはショールズ・アンド・グリデン(販売資料では Remington No. 1 とされていた)の価格を80ドルに下げ、Wyckoff, Seamans & Benedict に全マシンを買い取ってもらう契約を結んだ。この契約がタイプライターが商業的に成功するきっかけとなる。Wyckoff, Seamans & Benedict の販売努力によって最初の1年で1,200台を売り上げることになった。1884年、Hammond Typewriter Company、Crandall Type-Writer Company、Hall Typewriter Company といったさらなる競合企業が出現。ショールズ・アンド・グリデンが登場してから10年で「タイプライタ市場」が確実に存在するようになった。
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