生い立ち・軍人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:53 UTC 版)
「ホスニー・ムバーラク」の記事における「生い立ち・軍人へ」の解説
ミヌーフィーヤ県のカフル・エル・ムスリフ村に生まれた。父は小さな地主で、県の法務局で働いていた。父はムバラクにカイロ大学へ進学することを勧めていたが、1948年の第一次中東戦争が状況を変えた。戦後、アラブ軍の無能力が明らかになり、有能な人材を集めるために中産階級にも将校への道が開かれた。ムバラクは飛行士の道を進み、1949年に士官学校を優等で卒業した。 士官学校卒業後はシナイで勤務し、その後は空軍士官学校の教官となった。1956年、第二次中東戦争に従軍。1959年2月から1961年6月までソビエト連邦で訓練を受け、各種ソ連機の操縦に習熟した。 1959年、Tu-16爆撃機の飛行隊長に任命され、数年後、旅団長となった。1962年に北イエメン内戦が勃発すると、ムバラクも派遣部隊に編入され戦闘行動に参加した。1964年から1965年にかけてソ連のフルンゼ軍事大学で将校教育も受けた。 1967年の第三次中東戦争でエジプト空軍は事実上壊滅した。戦後、ムバラクはカリュービーヤ県ビルベイス (en) の軍大学校長に任命され、パイロット数の増員、訓練期間の短縮(4年から2年)という課題が与えられた。この成果が当時のガマール・アブドゥル=ナセル大統領に認められ、1969年、空軍大将に昇進しエジプト空軍参謀長に任命された。アンワル・アッ=サダト政権発足後の1972年、空軍司令官兼国防次官に就任。 1973年の第四次中東戦争ではイスラエル軍防衛陣地への電撃作戦で戦局を有利に導き、国民的英雄となった。戦後、最高勲章である「シナイの星」勲章を授与され、空軍元帥に昇進した。
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