現実のコンラート・コッホ
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「コッホ先生と僕らの革命」の記事における「現実のコンラート・コッホ」の解説
コンラート・コッホは実在した人物ではあるが、映画や小説の注意書きにあるように、この物語は大幅に脚色されたフィクションである。実際のコンラート・コッホは、英語教師ではなく古典語(ギリシア語・ラテン語)教師であり、ドイツ第二帝政期の他の多くの教師たちと同じように、純粋なナショナリストであった。彼がイギリス生まれのフットボールに魅了されたのは、大学時代にトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』を読み、イギリスのパブリック・スクールがスポーツ教育によって荒廃した学校の改革に成功したことを知ったからである。彼が自らの母校でもあったマルチノ・カタリニウム・ギムナジウム(ドイツの高校)に古典語教師として赴任したとき、イギリスのパブリック・スクールと同じように、マルチノ・カタリニウム・ギムナジウムも荒廃していた。そこで体操教師(当時のドイツでは「体育」ではなく「ドイツ式体操」がおこなわれていた)のオウグスト・ヘルマンと共に、体操の授業の一部にフットボールを取り入れるように提案したのである。強いナショナリズムをもつ他校の体操教師たちからは、イギリス生まれのスポーツを導入することに強い抵抗と批判を受けたが、コッホはイギリスの文化を真似るのではなく、フットボールをドイツ式の文化にするのだと説明し、すべての専門用語をドイツ語に翻訳した。ちなみに、ハンドボールは、彼らの体操改革の取り組みのなかで、女子にも適した(当時の考え方)室内での(サッカーとは逆に手を使う)球技として発明されたものである。コッホが荒れた生徒たちと親密な交流をもったことは事実であろうと推測されており(彼自身は「走りのコッホ」と呼ばれ、生徒たちとランニングを楽しんでいたようである)、彼の訳語が現代でもドイツサッカーの専門用語として使用されている(彼の意図通り「フットボールのドイツ化」の実現)という意味では、確かにコッホは「ドイツ・フットボール(ドイツ語でフースバル)の父」であった。だが、正確には、彼はサッカー推進派ではなく、ラグビー推進派であった。その理由は激しいゲームの方が当時の荒れた生徒(ドイツの学校には「決闘文化」と「飲酒(パブ)文化」が根強く残っていた。それらの文化が学校荒廃の原因でもあった)たちを惹きつけやすかったことである。そのため彼が学校に導入したフットボールもラグビーであったし、ドイツではじめて文章化したルールブックも、ラグビーのそれであった。つまり、彼がドイツ語に訳した「フースバル」は、当時はラグビーを指していたのである。後年、ドイツの国民にサッカーの方が好んで実践されるようになり、スポーツをドイツに広めようとする中央組織からサッカーのルールブックを作成するように依頼があった時に、コッホははじめてサッカーのルールブックを作成したのである。
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