現実に起こった事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 05:56 UTC 版)
1982年、東海大甲府高校 対 境高校 1982年に開催された第64回全国高等学校野球選手権大会の1回戦・東海大甲府高校(山梨)対境高校(鳥取)戦の4回裏、境高校の攻撃で一死満塁。 打者はスクイズを試みたが、これが一塁方向への小飛球となり一塁手が捕球(二死)。 一塁手はそのままゆっくりと一塁を踏み、飛び出していた一塁走者がアウトになった(三死)。 しかし、その前に三塁を飛び出していた走者が本塁に滑り込んでいた。東海大甲府高校側から三塁走者の離塁についてのアピールが行われなかったので、この場合、境高校に1点が入るはずだが、このとき境高校の得点は記録されなかった。 記者席では「このケースは境高校に先制点が入るはず」と一時騒然となり、試合後球審に質問したところ、球審は「一塁のアウトのほうが早かった」と答えたと伝えられている。 2008年夏の福岡大会でも同様のプレイが発生し、こちらは得点が入るとの裁定が行われた。 2009年、ダイヤモンドバックス 対 ドジャース 2009年4月12日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス対ロサンゼルス・ドジャース戦の2回表、ドジャースの攻撃で一死二・三塁。 打者ランディ・ウルフが放ったライナーの打球を、投手のダン・ヘイレンが捕球(二死)。 ヘイレンは二塁手のフェリペ・ロペスに送球、ロペスは飛び出していた二塁走者に触球した(三死)。 ダイヤモンドバックスの選手達が攻守交代のためベンチへ戻った後、ドジャースの監督ジョー・トーリらが「二塁走者のアウトよりも早く、三塁走者のアンドレ・イーシアーが本塁に到達している」と主張し、これが認められ得点が記録された。 このルールについてトーリは、ボブ・シェーファーベンチコーチが知っていて、監督に教えたとコメントしている。ダイヤモンドバックス監督のボブ・メルビンも「審判が正しい」とし、異議を唱えることはしなかった。 2009年、前橋工業高校 対 千葉商大付属高校 2009年11月2日に行われた第62回秋季関東地区高等学校野球大会の準々決勝、前橋工業高校(群馬)対千葉商大付属高校(千葉)戦の7回裏、千葉商大付属高校の攻撃で一死二・三塁。 中堅に落ちるかに見えたライナー性の打球を中堅手がダイビングで捕球(二死)。 この時、打球が地面に落ちると判断していた三塁走者は、三塁へリタッチすることなく本塁へ向かっていた。 捕球した中堅手は二塁ベースカバーの二塁手に送球し、三塁走者と同様に飛び出していた二塁走者をアウトにした(三死)。 送球が二塁に渡る前に三塁走者が本塁に触れていたものの、前橋工業高校の投手と内野手全員はそのままファウルラインを越えたためアピール権が消失。それを確認した審判団は三塁走者の得点を認めた。 前橋工業ナインはベンチに引き上げた後に三塁に触球しアピールしたものの、既にアピール権は消滅していたために受け入れられることはなかった。 2011年、履正社高校 対 九州学院高校 2011年3月30日に行われた第83回選抜高等学校野球大会の第8日、履正社高校(大阪)対九州学院高校(熊本)戦の6回表、九州学院高校の攻撃で一死満塁。 左翼前に落ちるかに見えたライナー性の打球を左翼手がファインプレーで捕球(二死)。 この時、三塁走者は打球を見ながら三塁の近くで立ち止まっていたが、二塁走者は既に三塁近くまで到達しており、そのため三塁走者は三塁へリタッチすることなく本塁へ向かった。 捕球後二塁走者の動きを確認した左翼手はそのまま二塁まで走り、自ら二塁を踏んで二塁走者をアウトにした(三死)。 左翼手が二塁を踏む前に三塁走者が本塁に触れていたものの、履正社高校の投手と内野手全員はそのままファウルラインを越えたためアピール権が消失。それを確認した審判団は三塁走者の得点を認めた。 履正社ナインは得点が記録されているのを確認した後、監督・岡田龍生の指示によりグラウンドに戻ってアピールしたものの、既にアピール権は消滅していたために受け入れられることはなかった。 履正社高校の左翼手は、捕球後相手三塁走者がリタッチしていないことを認めた上で「得点には関係のないプレイ」と判断したことを後に明かしている。また、味方内野手全員が二塁への触球を促したことや、監督の岡田も判断に迷っていたことも明かしており、チーム全体がルールを把握していなかったことが明らかになっている。 2012年、済々黌高校 対 鳴門高校 2012年8月13日に行われた第94回全国高等学校野球選手権大会の第6日、済々黌高校(熊本)対鳴門高校(徳島)戦の7回裏、済々黌高校の攻撃で一死一・三塁。 打者が放ったライナーを遊撃手がジャンプして好捕(二死)。 一塁走者はヒットエンドラン、三塁走者もギャンブルスタートによって走り出しており、一塁走者は一塁への帰塁を諦めた。 それを確認した遊撃手は一塁手へゆっくり送球し、一塁手が一塁に触球して一塁走者をアウトにした(三死)。 一方の三塁走者は、遊撃手の捕球後一瞬立ち止まりかけたものの本塁へ全力疾走しており、送球が一塁手に渡る前に本塁に到達していた。しかし鳴門高校の投手と内野手は全員がそのままファウルラインを越えたため、アピール権が消失した。それを確認した審判団は三塁走者の得点を認めた。 この試合で、済々黌高校は5回裏の一死一・三塁の状況でも全く同様の作戦を行なっていたが、このときは球審が本塁生還よりも第3アウトの方が先として退けていた。この際、守備側は一塁走者に触球した後二塁塁審が一塁塁審に判定を促したのを見てからさらに一塁にも触球しており、ルールに熟知していないことを悟られている。 なお、済々黌高校の三塁走者は小学生時代、先述した『ドカベン』におけるエピソードを読んでおり、得点成立を狙っていたことを試合後に明かしている。また、鳴門高校の捕手もルールは分かっていたが、打球の方向に集中していたため三塁走者が第3アウトよりも先に本塁に達したことを把握できず、審判員へアピール出来なかったと語っている。 済々黌高校監督(当時)の池田満頼は、自身の少年期より愛読していた『ドカベン』に影響を受け、この試合の数年前から野球部での練習に取り入れていたと語っている。
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