現代劇の主演俳優としてとは? わかりやすく解説

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現代劇の主演俳優として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 02:50 UTC 版)

石川秀道」の記事における「現代劇の主演俳優として」の解説

1902年明治35年2月17日東京市日本橋区久松町現在の東京都中央区日本橋久松町)の米穀商「三州屋」の三男として生まれる。1909年明治42年)に家業思わしくなく養子出されるが、その後養子先逃亡1918年大正7年)、16歳のときに映画界の道を志して井上正夫門下に入る。 そのころの井上天然色活動写真天活)、つづいて同社から独立した小林喜三郎経営する小林商会出演監督をしていたが、1917年大正6年)の同社倒産直後であり、舞台戻り石川加わった年の8月には「本郷座」で公演行い石川はそこで初舞台踏んだ1919年大正8年)に復活した小林開いた国際活映だが、1921年大正10年)には同社角筈撮影所井上一門そろって入社した。のちに同社退社松竹蒲田撮影所移籍して島津保次郎監督助監督となったが、1923年大正12年)には兵役により退社した同年の夏には兵役から帰り帝国キネマ演芸芦屋撮影所入社したので、同年9月1日関東大震災から免れた松本英一監督現代劇伊丹夕暮』に出演高堂国典共演し、準主役勝ち取った21歳であった。翌1924年大正13年)には東亜キネマ移籍し京都の「等持院撮影所」で、高木哲也監督の『死に語る愛』ではついに主役勝ち取る1925年大正14年)からは西宮にある東亜キネマの「甲陽撮影所」に異動賀古残夢監督の『孝女白菊』に出演多く主演もものし、1927年昭和2年東亜キネマが甲陽を閉鎖すると、京都等持院改め京都撮影所移り引き続き現代劇出演した1930年昭和5年)には米沢正監督柳川春葉原作の『生さぬ仲』に出演した。翌1931年昭和6年)秋からは東亜キネマの製作代行会社として設立された「東活映画社」に引き続き出演したが、翌年同社倒産してしまい、同社母体にした「日本映画」社に移るも、同社は3作しか製作できずに倒産余儀なくされた。そのレア最終作品中村能二監督の『上海から来た女』(1933年)に石川重要な役で出演している。

※この「現代劇の主演俳優として」の解説は、「石川秀道」の解説の一部です。
「現代劇の主演俳優として」を含む「石川秀道」の記事については、「石川秀道」の概要を参照ください。

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