漁猟権を巡る戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:21 UTC 版)
「ボブ・サタイアクム」の記事における「漁猟権を巡る戦い」の解説
1949年、「メディシン・クリーク条約」署名者の曾孫であるボブは、インディアンの生得権としてのサケ漁の権利を主張するべく、インディアン運動家たちの中に加わった。ボブは川で投網漁を行い、「密漁罪」で州によって初めて逮捕された。 1954年、再びボブはもう一人の運動家、ジェームズ・ヤングとともに投網漁を行って逮捕され、有罪とされた。ここから始まるボブと州との法廷戦は、ワシントン州のインディアンの民族権利運動の象徴として、全米の耳目を集めるところとなった。地元新聞「シアトル・タイムズ」は当時、ボブをして「州の漁猟局最大の悩みの種」と評している。 1960年代に入ると、ワシントン州は「釣りと狩猟法」を制定し、インディアンの伝統漁を州法で禁止する措置に出た。これに対し、ボブを始めワシントン州のインディアンたちは、ゲリラ戦略を採って「密漁」を決行し、公然とこの州法を犯して抗議運動を展開した。 1962年1月6日、ニスクォーリー族のビリー・フランクJr、チュラリップ族のドン・マクラウド、その親類たちのグループが、ニスクオリー川で「フランクの投網抗議」と呼ばれる一連のゲリラ抗議を行い、ワシントン州狩猟区監視官によって逮捕された。監視官らはインディアン抗議団のボートを捕縛するため、トランシーバーや偵察機までを動員した。これに対し、ボブはジャネット・マクラウド夫妻らと共に、運動団体「アメリカインディアンの生き残りのための協会」(Survival of American Indians Association=SAIA)を結成し、組織的な抗議行動を開始した。 1963年、「ワシントン対マッコイ法廷戦」で裁判所はボブの有罪判例を覆し、「インディアンの条約に基づく権利は、州の管理下にない」と結論付けた。この判決はインディアンたちを勢いづかせた。この年12月23日、ボブら「SAIA」は「ノー・サーモン、ノー・サンタ」と書いたプラカードを掲げ、州都オリンピアでデモ行進を行った。州知事は彼らを招いて意見を聞いたが何もしなかった。 1964年1月29日、ロバート・H・ジャック判事は前回判例を覆し、ビリー・フランクJrらニスクォーリー族インディアンに対し、保留地外での投網漁の暫定的差止命令を下した。すでにインディアン抗議者たちのボートや投網は州によって没収され、多数の運動家たちが逮捕拘留されていた。部族会議も、必ずしもこれらの抗議に賛同していなかった。西ワシントンの相互部族間会議は6月21日に州の保全調査に賛同。抗議者は戦いに疲れ始めていた。 ここに至って、ボブら「SAIA」は運動の援助を州外にも求めることを決定。「SAIA」とピュヤラップ族の代表たちが「アメリカインディアン国民会議」(NCAI)と「全米インディアン若者会議」(NIYC)に協力を求め、二大インディアン団体はこれを快諾。フロリダのセミノール族、ネブラスカ州のウィンネバーゴ族、モンタナ州のブラックフット族、ワイオミング州のショーショーニー族、南北ダコタ州のスー族など、数多くのインディアン部族が支援を表明。さらに「SAIA」に、アシニボイン族の運動家ハンク・アダムスが参加。「NCAI」メンバーのヴァイン・デロリア・ジュニアとともに、抗議運動の理論的支援を行った。 「SAIA」は、さらに「全米黒人地位向上協会」(NAACP)、「ブラック・パンサー党」などの黒人公民権運動団体と提携した。ボブは「我々は、黒人からたくさんのことを学ぶことが出来る」と語っている。 「NAACP」のジャック・タナー(後の連邦判事)は「SAIA」のために資金を調達し、助言と支援を行った。彼らの抗議デモには多数の州警察隊が動員され、ワシントン州は一大対立の様相となった。 二転三転する裁判所の裁定をみて、「SAIA」は全米にアピールする抗議方法を模索。ゲリラ戦術から転換し、ハンクの提案によってその抗議方法を、「ワシントン州ピュヤラップ川で一斉に釣りをする」(フィッシュ=イン)と決定した。 「フィッシュ=イン」とは、当時南部の若い黒人たちが行った公民権運動の「シット=イン」(一斉に座り込む)から採ったものだった。
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