清涼殿 鬼の間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:12 UTC 版)
古来から日本に伝わる家相では、鬼門、北東を忌み嫌う言い伝えがある。一方、築地塀の「猿ヶ辻」は鬼門にあり、清涼殿内部には鬼の間が存在した。清涼殿の南西隅、すなわち御所の裏鬼門の位置にある。飛鳥部常則が康保元年(964年)に鬼を退治する白沢王像を描いたとされる。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であるという説がある。順徳天皇が著した禁秘抄に絵の記述があるものの、現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。なお、明治時代の『禁秘抄講義』3巻上(関根正直著)で引用されている江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李の将軍、「白澤王」としても記されている。昭和43年、皇居東御苑が一般公開されたが、京都御所はGHQの管理下でありながら、昭和21年11月に一般公開されている、しかし現在でも鬼の間は一般公開されていないと、小池は述べている。これについて、家相を研究する小池康寿は著書『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』において、京都御所や天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて築地塀を凹ませていたとするより、庶民に災厄が及ばぬように皇室が一手に凹み(猿ヶ辻)で受けとめ、御所内部の清涼殿の鬼の間に導いて鬼を切り倒すことで世の安泰を願っていた(宮中祭祀)と解釈した方が自然であると論じ、外から見た御所の塀の凹みのみに注目した庶民の単純な考えが鬼門除けの発想に繋がったと考えるのが理に適うとしている。 その対角線上の建物の北東隅の鬼門にあたる位置には部屋がなく、簀子縁の一部となっている。南廂は広い1室をなし、別名「殿上の間」と呼ばれる。ここは殿上人、すなわち清涼殿への昇殿を許された人々の控えの間であり、会議室としても用いられた。この部屋には「日給簡」(にっきゅうのふだ)という、縦長で頂部の尖った板が置かれている。ここに殿上人の氏名を記し、当番の殿上人の名前のところに、出勤の日と時間を記した紙を貼り付けていた。殿上の間と身舎の境の壁の高い位置には「櫛形窓」と称する半円形の小窓が開けられている。櫛形窓は柱を挟んで左右に分かれており、右半分は昼御座のある身舎に、左半分は鬼の間に、それぞれ面している。この窓には横桟が入り、身舎側からは殿上の間の様子が見えるが、殿上の間側からは身舎側を見ることができない。この窓は女官たちが昇殿した殿上人たちの品定めをするのに用いたとの所伝があるが、真偽のほどは不明である。清涼殿内の障壁画は大和絵系の土佐光清、土佐光文、土佐光武が担当している。
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