浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易
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「赤穂事件」の記事における「浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易」の解説
浅野内匠頭は目付より取り調べを受けたのち、幕府の裁定を待つため、芝愛宕下の陸奥一関藩主田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。 内匠頭はこの時点から罪人としての待遇になっており、乗せられた駕籠は江戸城の平川門から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった。16時頃に田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ態勢ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた。 内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、畳2枚、若しくは筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた。このしつらえは内匠頭の身分に不相応な略式であり、おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたとされる。 一方で、当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした。 切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎・大久保権左衛門、介錯は御徒目付磯田武太夫であった。 遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺にひっそり埋葬された。 同時に赤穂藩の改易も決まった。まず伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は、内匠頭が御馳走役を外されたことを理由に退去を命じられ、急遽御馳走役を引き継いだ佐倉藩主戸田忠真が到着したのと入れ違いに、上屋敷へと引き上げた。この時、藩士らが騒動を起こしたときに備え、武力で抑えられるよう上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた。14日夜、内匠頭の正室の阿久里は剃髪し、名を瑤泉院と改め、翌15日明け方に実家の三次藩主浅野長澄に引き取られた。 15日からは江戸詰めの藩士が藩邸を退去、町家の借家に引き上げ始めた。18日には内匠頭の従弟の大垣藩主戸田氏定が、赤穂藩の地権書である朱印状を幕府へ老中土屋政直へ返還している。17日には上屋敷、18日には赤坂下屋敷、22日には本所下屋敷がそれぞれ、幕府に収公された。この収公に先立ち、町人や浪人の中で其々の藩邸に忍び込んで空巣をやる者や、堂々と押し入って暴れる者がおり、大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている。堀部武庸も暴徒の退治に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』)。
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