浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易とは? わかりやすく解説

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浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)

赤穂事件」の記事における「浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易」の解説

浅野内匠頭目付より取り調べ受けたのち、幕府の裁定を待つため、愛宕下陸奥一関藩田村建顕屋敷お預けとなる事になった内匠頭はこの時点から罪人としての待遇になっており、乗せられ駕籠江戸城平川門から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ死者罪人を出すための門であった16時頃に田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ態勢ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙張っていた。 内匠頭切腹の場所は田村家の庭で、畳2枚若しくは筵(むしろ)をしき、その上に毛氈敷いた上で行われた。このしつらえ内匠頭身分不相応な略式であり、おそらくその背後将軍綱吉の強い意向働いていたとされる一方で当時打ち首屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し切腹武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、内匠頭切腹言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした。 切腹の際の立会人検使正使大目付庄田安利下総守)と、 検使副使目付多門伝八郎大久保左衛門介錯御徒目付磯田太夫であった遺体浅野家の家臣達の片岡五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎中村清右衛門糟屋勘右衛門建部喜内によって引き取られ菩提寺泉岳寺にひっそり埋葬された。 同時に赤穂藩改易決まった。まず伝奏屋敷詰めていた赤穂藩士は、内匠頭御馳走役外されたことを理由退去命じられ急遽御馳走役引き継いだ佐倉藩戸田忠真到着したのと入れ違いに、上屋敷へと引き上げた。この時、藩士らが騒動起こしたときに備え武力抑えられるよう上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻り固めさせた。14日夜、内匠頭正室阿久里剃髪し、名を瑤泉院改め、翌15日明け方実家三次藩浅野長澄引き取られた。 15日からは江戸詰め藩士藩邸退去町家借家引き上げ始めた18日には内匠頭従弟大垣藩戸田氏定が、赤穂藩地権書である朱印状幕府老中土屋政直返還している。17日には上屋敷18日には赤坂下屋敷22日には本所下屋敷それぞれ幕府収公された。この収公先立ち町人浪人の中で其々藩邸忍び込んで空巣をやる者や、堂々と押し入って暴れる者がおり、大垣藩浅野本家広島藩から警護のものが派遣されている。堀部武庸暴徒退治加わり金品強奪破壊から藩邸守った(『堀部武庸日記』)。

※この「浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。

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