浅野内匠頭の性格
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吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している。 『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼる状態にある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきったままだ」とある。 そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている。 元禄14年春に作成された『諫懲後正』には内匠頭は武道を好むが文道を好まず、知恵もなく短慮だが職務を怠らず不行跡なことはないとしている。 多門伝八郎は内匠頭が「私は乱心したわけではないから離してほしい」と内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛に言っていたと書き留めており、当人の言によれば内匠頭は「乱心」したわけではない。幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった。
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