活動弁士の活躍と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:53 UTC 版)
初期の映画はフィルムに音をつける技術がなかったため、欧米では映画の中に挿入されるセリフや背景解説のショット(図を参照)と生伴奏の音楽によって上映されていた。日本では言語や文化背景の相違も影響し、上映する際には口頭で説明することが求められた。 日本は話芸の文化が多彩であり、特に人形浄瑠璃における太夫と三味線、歌舞伎における出語り、のぞきからくり、写し絵、錦影絵の解説者といったナレーション文化がすでに定着していたために、説明を担う話芸者が舞台に登場することは自然な流れであったと考えられる。そのため、日本においては、映画作品の内容にあわせて台本を書き、上映中に進行にあわせてそれを口演する特殊な職業と文化が出現した。 戦前には娯楽が少ない中で映画がその中心を占め、活動弁士もその状況に応じて活躍するようになり、西村楽天、徳川夢声、大蔵貢、生駒雷遊、國井紫香、静田錦波、谷天郎、山野一郎、牧野周一、伍東宏郎、泉詩郎、里見義郎、松田春翠、大辻司郎のような人気弁士も現れるようになった。弁士に対して歌舞伎のような礼賛の掛け声がかかることがあった。 弁士は舞台上でななめに構え、奥のスクリーンと観客席を交互に見ながら語った。このため当時の映画館には必ず舞台があった。 しかし、映画の技術が発達して、音声が入るトーキーが普及するようになって以後は、活動弁士は不要となってしまう。このため、大半の活動弁士が廃業に追いこまれ、その多くが漫談や講談師、紙芝居、司会者、ラジオ朗読者などに転身した。活動弁士には映画の解説を行う際に話術が高く要求されるため、その優れた話術や構成力がそのままタレントなどとなっても活かせたのである。なかには大蔵貢のように、映画会社の経営者に転身した者もいる。 一方で、須田貞明(黒澤明の実兄)のように転身を図ることもできず、ストライキによる待遇改善の要求に失敗、精神的な挫折により自ら命を絶った者もいた。 1932年4月、東京浅草松竹系映画館でトーキー化による生活不安と活弁・楽士の解雇反対ストライキがあった。
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