活動弁士の誕生
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日本で映画が初めて公開されたのは、1896年(明治29年)11月25日の神戸神港倶楽部においてであった[要出典]。輸入品のキネトスコープは日本人にとっては全く未知の装置であり、またフィルムの尺も短いものであったため、映画を興行として成り立たせるためには、機械の説明をして、場を保たせる説明者が必要だった。この要求に応じる形で口上を述べ、弁舌を振るったのが活動弁士の元祖、上田布袋軒なる人物である[要出典]。 その後約3カ月の間に複数の経路から映画が輸入されるのであるが、どの興行にも説明者が付いていたことから[要出典]、日本が活動弁士という特異な興行・芸能形態を確立した必然性を見て取ることができる[誰?]。以下に挙げるのは、日本における映画の初公開(映写機別)の詳細である。 日本における映画の初公開(映写機別)映写機日付会場興行主活動弁士キネトスコープ 1896年(明治29年)11月25日初公開 神戸神港倶楽部 高橋慎治 上田布袋軒 シネマトグラフ(関西) 1897年(明治30年)2月15日初公開 南地演舞場 稲畑勝太郎 高橋仙吉・坂田千駒 シネマトグラフ(関東) 1897年(明治30年)3月9日初公開 横浜港座 吉沢商会 中川慶二 ヴァイタスコープ(関西) 1897年(明治30年)2月22日初公開 新町演舞場 荒木和一 上田布袋軒 ヴァイタスコープ(関東) 1897年(明治30年)3月6日初公開 神田錦輝館 新居商会 十文字大元
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