水晶宮時代とは? わかりやすく解説

水晶宮時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 23:36 UTC 版)

アウグスト・マンス」の記事における「水晶宮時代」の解説

1855年マンス招かれアムステルダムで夏季シーズン演奏会指揮したイングランドでは水晶宮運営任されジョージ・グローヴがシャレーンを不適格として解任しており、ロンドン戻ったマンス水晶宮での仕事引き継いだ。ミュージカル・ワールド紙(The Musical World)はこう報じている。 この変革楽団必要な改善もたらすと我々は信じている。マンス氏は出世またとない機会得た。彼が手にしたのはイギリス随一楽団作り上げるに足る人材であり、彼の指揮棒の下で水晶宮オーケストラそのような名声獲得するのは我々にとっても喜ばしいことである。(中略マンス氏の音楽家として知性持ってすれば人材天分見抜けず、聴衆要望を酌めないということはない。新たな音楽監督迎え入れた水晶宮では、瞬く間音楽最大魅力のひとつとなるであろう間違いなく予言できるではなかろうか。 これ以降マンスキャリアは、ほぼ水晶宮と共に築かれていったものばかりとなる。彼が着任した際の水晶宮常任楽団吹奏楽団であり、マンスはそのメンバー特別に雇った弦楽奏者4人からなる34名の奏者による即席管弦楽団こしらえたグローヴ水晶宮運営陣後ろ盾得た彼は順次楽団員増員してフルオーケストラとし、この楽団のために水晶宮には新たなコンサートルームが建設された。グローヴマンス共同して水晶宮での演奏会安価にクラシック音楽触れることができる主たる催ししたのである1855年から1901年までの間、10月から4月までのコンサート・シーズンには土曜日午後に演奏会開かれていた。 任用から数ヶ月のうちに初のロンドン公演催したマンスは、そこでシューマンの『交響曲第4番』とシューベルトの『交響曲第8番』(ザ・グレート)を演奏した彼の演奏会では300人以上の作曲家取り上げられた。ドイツ=オーストリア系の作曲家が最も多く104人)、次いでイギリス作曲家大差2位82人)となっている。マンス若きアーサー・サリヴァン付随音楽テンペスト英語版)』を1862年4月演奏しサリヴァン音楽初めイングランド聴衆紹介することになった。さらにマンスその後チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードヒューバート・パリーヘイミッシュ・マッカンエドワード・エルガーエドワード・ジャーマンらの初期作品紹介役となった。『テンペスト』演奏から30年以上経ってサリヴァン彼にこう書き送っている。「わが古き友よ、私が梯子の一番下の段に昇るためにあなたが差し出してくれた救いの手対し、私がどれほど恩義感じきれずにいることか。私はいかなるときも感謝親愛の情をもってあなたのことを想わなければなりません。」ブラームス1863年)、ラフ1870年)、ドヴォルザーク1879年)といった同時代大陸作曲家たちも、マンス水晶宮での演奏会通じてはじめてイングランド国内知られるようになっていった。 1888年マンス指揮により水晶宮録音されヘンデルオラトリオエジプトのイスラエル人』は、クラシック音楽歴史中でも現存する最古録音のひとつである。

※この「水晶宮時代」の解説は、「アウグスト・マンス」の解説の一部です。
「水晶宮時代」を含む「アウグスト・マンス」の記事については、「アウグスト・マンス」の概要を参照ください。

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