水晶宮時代
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1855年、マンスは招かれてアムステルダムで夏季シーズンの演奏会を指揮した。イングランドでは水晶宮の運営を任されたジョージ・グローヴがシャレーンを不適格として解任しており、ロンドンに戻ったマンスは水晶宮での仕事を引き継いだ。ミュージカル・ワールド紙(The Musical World)はこう報じている。 この変革が楽団に必要な改善をもたらすと我々は信じている。マンス氏は出世のまたとない機会を得た。彼が手にしたのはイギリス随一の楽団を作り上げるに足る人材であり、彼の指揮棒の下で水晶宮オーケストラがそのような名声を獲得するのは我々にとっても喜ばしいことである。(中略)マンス氏の音楽家としての知性を持ってすれば人材の天分を見抜けず、聴衆の要望を酌めないということはない。新たな音楽監督を迎え入れた水晶宮では、瞬く間に音楽が最大の魅力のひとつとなるであろうと間違いなく予言できるのではなかろうか。 これ以降のマンスのキャリアは、ほぼ水晶宮と共に築かれていったものばかりとなる。彼が着任した際の水晶宮の常任楽団は吹奏楽団であり、マンスはそのメンバーと特別に雇った弦楽奏者4人からなる約34名の奏者による即席の管弦楽団をこしらえた。グローヴと水晶宮の運営陣の後ろ盾を得た彼は順次楽団員を増員してフルオーケストラとし、この楽団のために水晶宮には新たなコンサートルームが建設された。グローヴとマンスは共同して、水晶宮での演奏会を安価にクラシック音楽に触れることができる主たる催ししたのである。1855年から1901年までの間、10月から4月までのコンサート・シーズンには土曜日の午後に演奏会が開かれていた。 任用から数ヶ月のうちに初のロンドン公演を催したマンスは、そこでシューマンの『交響曲第4番』とシューベルトの『交響曲第8番』(ザ・グレート)を演奏した。彼の演奏会では300人以上の作曲家が取り上げられた。ドイツ=オーストリア系の作曲家が最も多く(104人)、次いでイギリスの作曲家が大差で2位(82人)となっている。マンスは若きアーサー・サリヴァンの付随音楽『テンペスト(英語版)』を1862年4月に演奏し、サリヴァンの音楽を初めてイングランドの聴衆に紹介することになった。さらにマンスはその後チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード、ヒューバート・パリー、ヘイミッシュ・マッカン、エドワード・エルガー、エドワード・ジャーマンらの初期作品の紹介役となった。『テンペスト』の演奏から30年以上経って、サリヴァンは彼にこう書き送っている。「わが古き友よ、私が梯子の一番下の段に昇るためにあなたが差し出してくれた救いの手に対し、私がどれほどの恩義を感じきれずにいることか。私はいかなるときも感謝と親愛の情をもってあなたのことを想わなければなりません。」ブラームス(1863年)、ラフ(1870年)、ドヴォルザーク(1879年)といった同時代の大陸の作曲家たちも、マンスの水晶宮での演奏会を通じてはじめてイングランド国内で知られるようになっていった。 1888年にマンスの指揮により水晶宮で録音されたヘンデルのオラトリオ『エジプトのイスラエル人』は、クラシック音楽の歴史の中でも現存する最古の録音のひとつである。
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