気象研究所・気象庁勤務時代
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「増田善信」の記事における「気象研究所・気象庁勤務時代」の解説
1949年(昭和24年)、気象技術官養成所研究科を卒業し、以後1959年(昭和34年)まで気象研究所に勤務する。気象研究所で予報研究部研究官を務めたのち、1959年(昭和34年)に気象庁が日本で初めてとなる大型電子計算機IBM704を導入したのを契機に、気象庁予報部電子計算室に着任した。その後1978年(昭和53年)までの19年間、予報官として主に気象力学、なかでも台風の進路予想など、数値予報の研究とモデル開発に携わった。この間、1959年(昭和34年)に気象学会賞を受賞する。また、1961年(昭和36年)に東京大学で「台風の進路予報に関する数値的研究」を行い、理学博士を取得した。 1965年(昭和40年)に全気象労働組合中央執行委員長に選出され、1968年(昭和43年)までの3期3年と、1970年(昭和45年)から1973年(昭和48年)までの3期3年を務める。 1977年(昭和52年)第11期と1980年(昭和55年)第12期の2度、第4部・地球物理学の分野で日本学術会議の会員に選出された(任期は1977年度~1984年度)。この間、インドのラクナウで開催されたインド科学会議第72回年次大会に、日本学術会議を代表して出席。同時に非公式で開催された「平和と核軍縮のための科学者」会議に唯一出席した日本人であったことから即席の挨拶を求められ、気象学者の立場から「核の冬」について述べるとともに、核兵器の全面禁止を一義的に追及することの重要性を説いた。 1978年(昭和53年)から1984年(昭和59年)まで、気象研究所に勤務し、予報研究部第1研究室長を務める。この間にも気象庁勤務時代に担った数値的手法による中期予報の研究を続けた。 1984年(昭和59年)4月1日退職。その後、「非核の政府を求める会」常任世話人、「酸性雨調査研究会」代表幹事などを務める。
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