民主化と国際交流(1945-1962)
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「戸倉ハル」の記事における「民主化と国際交流(1945-1962)」の解説
第二次世界大戦終結後、アメリカ教育使節団報告書が発表され、従来の体錬科は「健康生活の確立」に向けた「体育科」に改められ、学校体育研究委員会が1946年(昭和21年)に発足した。この委員に戸倉も選ばれ、竹之下休蔵が委員長を務めた。委員会では「音楽運動」に代わって「ダンス」という名称を採用することを決定し、「学校体育指導要綱」を1947年(昭和22年)に発表した。 東京女高師はお茶の水女子大学(お茶大)の付置校として生まれ変わり、1949年(昭和24年)に東京女高師教授と兼任でお茶大助教授に就任した。東京女高師体育科はお茶大教育学部教育学科体育学専攻に改組し、学科から専攻へと格下げとなったことに戸倉はショックを受けた。1955年(昭和30年)にお茶大教授に昇任し、1962年(昭和37年)3月に定年退官するまで勤務した。学外では大学設置審議会臨時委員(1952年=昭和27年)、文部省スポーツ振興審議会委員(1957年=昭和32年)、東京都体育審議会委員(1963年=昭和38年)などを務めた。この時期にも創作ダンスを生み出し続けたが、文部省の方針は生徒が自らダンスを創作するという流れになっており、戸倉の作品は「参考作品」として扱われた。 1953年(昭和28年)、文部省の派遣により、フランス・パリで開催された第2回国際女子体育会議に出席した。ここでドロシー・エインズワース(Dorothy Sears Ainsworth)会長ら多くの女子体育家と知り合い、イタリア・スイス・オランダ・フランス・西ドイツ・デンマーク・スウェーデン・フィンランド・イギリス・アメリカを歴訪して欧米の体育の状況を視察し、日本に帰国した。同年、一宮道子とともに国際体操連盟総会(オランダ・ロッテルダム)に日本代表として出席した。翌1954年(昭和29年)6月19日にお茶大で日本女子体育連盟を発足させ、8月5日に第1回日本女子体育連盟総会を開催した。1955年(昭和30年)に役員を選出、戸倉が会長に就任した。一方、1957年(昭和32年)第3回国際女子体育会議(イギリス・ロンドン)、1961年(昭和36年)第4回会議(アメリカ・ワシントン)にも連続参加した。
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