民主化と国際交流とは? わかりやすく解説

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民主化と国際交流(1945-1962)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:56 UTC 版)

戸倉ハル」の記事における「民主化と国際交流(1945-1962)」の解説

第二次世界大戦終結後アメリカ教育使節団報告書発表され従来体錬科は「健康生活確立」に向けた体育科」に改められ学校体育研究委員会1946年昭和21年)に発足した。この委員戸倉選ばれ竹之下委員長務めた委員会では「音楽運動」に代わって「ダンス」という名称を採用することを決定し、「学校体育指導要綱」を1947年昭和22年)に発表した東京女高師お茶の水女子大学お茶大)の付置校として生まれ変わり1949年昭和24年)に東京女高師教授兼任お茶大助教授就任した東京女高師体育科お茶大教育学部教育学科体育学専攻改組し、学科から専攻へと格下げとなったことに戸倉ショック受けた1955年昭和30年)にお茶大教授昇任し1962年昭和37年3月定年退官するまで勤務した学外では大学設置審議会臨時委員1952年=昭和27年)、文部省スポーツ振興審議会委員1957年=昭和32年)、東京都体育審議会委員1963年=昭和38年)などを務めた。この時期にも創作ダンス生み出し続けたが、文部省方針生徒が自らダンス創作するという流れになっており、戸倉作品は「参考作品」として扱われた。 1953年昭和28年)、文部省派遣により、フランス・パリ開催され第2回国際女子体育会議に出席した。ここでドロシー・エインズワース(Dorothy Sears Ainsworth会長多く女子体育家と知り合い、イタリア・スイス・オランダ・フランス・西ドイツ・デンマーク・スウェーデン・フィンランド・イギリス・アメリカを歴訪して欧米体育の状況視察し日本に帰国した。同年一宮道子とともに国際体操連盟総会(オランダ・ロッテルダム)に日本代表として出席した。翌1954年昭和29年6月19日お茶大日本女子体育連盟発足させ、8月5日第1回日本女子体育連盟総会開催した1955年昭和30年)に役員選出戸倉会長就任した一方1957年昭和32年第3回国際女子体育会議(イギリス・ロンドン)、1961年昭和36年第4回会議(アメリカ・ワシントン)にも連続参加した

※この「民主化と国際交流(1945-1962)」の解説は、「戸倉ハル」の解説の一部です。
「民主化と国際交流(1945-1962)」を含む「戸倉ハル」の記事については、「戸倉ハル」の概要を参照ください。

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