民主化の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 17:20 UTC 版)
「ハンガリー民主化運動」の記事における「民主化の開始」の解説
他の中東欧の社会主義国に比べると早いうちから市場経済化・政治の自由化を進めており、ソ連のゴルバチョフ政権によるペレストロイカの流れもあって、改革をさらに進めていたハンガリーであったが、1980年代後半になると、カーダール・ヤーノシュによるハンガリー社会主義労働者党独裁の限界が明らかとなった。過度な投資が対外債務の増加を生んで経済が失速する一方、高齢になったカーダールは保守化し、これ以上の経済の自由化には消極的になっていた。1987年、カーダールは対外債務の返済のために経済の自由化で生じた富裕層の増税を行おうとしたが、この法案は国会で否決されてしまった。社会主義体制になってから初めて政府の法案が議会によって覆されるという事態が生じたのである。これによって保守派とカーダールは信用を失い、1988年5月、カーダールは引退した。 カーダールの後を継いで穏健改革派のグロース・カーロイ(ハンガリー語版)が書記長に就任し、同時に政治局にはニエルシュ・レジエが復帰し、ネーメト・ミクローシュ(1988年から首相)、ポジュガイ・イムレ(ハンガリー語版)らの急進改革派も政治局入りした。グロースはあくまでも一党制を維持し、党内の民主化を進めることで改革を達成できると考えていた。一方、ポジュガイらは複数政党制の導入など、急進的な改革を志向していた。1988年10月には会社法が制定されて国有企業の株式会社化が行われた。 1989年になるとポジュガイら改革派によって政治改革が加速していった。1月には集会・結社の自由化、政党結成の容認などが進められ、2月には党の指導性の放棄、党と政府の分離を決定し、4月には民主集中制の放棄が決定された。
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