民主化への含意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:13 UTC 版)
現在ポリアーキーでない国々、すなわち非民主体制をとる国々であっても自由化もしくは包括性の次元を高めていくことで民主化(正確にはポリアーキー化)が可能である。ダールは閉鎖的抑圧体制が民主化する経路として次の三つを想定している。尚、これらは多くの国々が実際に経験した歴史的展開でもある。 第一の経路は自由化の次元を高め、競争的寡頭体制となったあとポリアーキー化するケースである。これは多くの国々で実際に起こった歴史的展開である。代表例はイギリスである。まず政権を巡る自由な競争がトーリーとホイッグの二大政党間で展開され、自由権が保障されるようになった。その上で1832年の第一次選挙法改正を皮切りに、選挙権が拡張されていった。支配者がある程度の自由化や包括化を認めるためには、抑圧にかかるコストが自由化・包括化を許す寛容のコストを上回る必要がある。そのためには反政府勢力が政府勢力に対し、自分たちが政権を奪取した際にも身の安全を保障することが重要である。競争的寡頭体制ではエリート間が競争を行っているため、そのような安全保障の約束が成り立ちやすい。従って民主化の際にこの経路は最も確実なものであると言える。 第二の経路は包括性の次元を高め、包括的抑圧体制となったあとポリアーキー化するケースである。帝政期のドイツでは、広範な政治参加が認められていた。しかしながら政府を批判するような自由は厳しく規制されていた。ナチス党政権のような全体主義体制を経験しつつも、ヴァイマール共和制を経てその後はポリアーキー化が進展した。 第三の経路は閉鎖的抑圧体制から一気にポリアーキーにいたるケースである。例えばフランスは革命によって絶対主義体制(アンシャン・レジーム)を一気にポリアーキー化しようとした。 上述したように第一の経路が民主化する上で最も確実な方法であり、第三の経路が最も不確実で危険な方法であるとされる。第二・第三の経路が危険なのは、民主化の際に重要な政府勢力と反政府勢力との間の相互安全保障が成立しにくいからである。実際に第三の経路を辿ったフランスでは革命後にジャコバン派の独裁などの抑圧的な体制への変化が起こり、その後も革命とその反動を繰り返しつつポリアーキー化した。しかし結局7月革命から2月革命、第三共和制へと至る経路は事実上第一の経路に近いと言えるものであるだろう。
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