民主化と自治州政府の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 21:23 UTC 版)
「バスク・ナショナリズム」の記事における「民主化と自治州政府の成立」の解説
1975年にフランコが死去し、スペインが民主化への道を歩み出すと、バスク・ナショナリズムは一気に公的空間へ拡散した。バスク・ナショナリスト穏健派のバスク民族主義党以外の政治的勢力として、1977年にはバスク左翼(EE)が、1978年には事実上はETAの政治部門であるエリ・バタスナ(HB)がバスク・ナショナリスト急進左派として誕生した。1977年6月の総選挙では民主中道連合(UCD)とスペイン社会労働党による二大政党制の様相を呈する中、バスク民族主義党は8議席を獲得し、バスク左翼は1議席を獲得した。スペイン1978年憲法(現行憲法)はフエロを尊重するとしており、バスク4地域はフエロ体制を維持回復した。スペイン1978年憲法は自治州の設置を認めており、1979年にゲルニカ憲章(バスク自治憲章)がスペイン国会の承認を経て住民投票で可決されると、1980年にはバスク自治州議会選挙が初開催されてバスク民族主義党が第1党となった。カルロス・ガライコエチェアをレンダカリ(政府首班)とするバスク自治政府が発足し、バスク自治州は1936年-1937年以来となる地方自治を実現した。バスク自治州はアラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県で構成され、歴史的にバスク地方の一部であるナバーラ県は1982年に単独でナバーラ州となった。 1986年まではバスク民族主義党が単独で、それ以後はバスク連帯(EA)などのバスク・ナショナリスト勢力やバスク社会党(PSE)などの非バスク・ナショナリスト勢力と連立して2009年までバスク民族主義党が政権を担った。ETAの政治部門であるエリ・バタスナやバタスナは常にバスク自治州議会選挙で15-18%の得票を維持していたが、2001年に起こったアメリカ同時多発テロは世界的な反テロリズムの潮流を巻き起こし、国民党のホセ・マリア・アスナール政権によって非合法化された。2009年のバスク自治州議会選挙ではバスク社会党のパチ・ロペスがレンダカリ(政府首班)となり、自治州発足以来初めて非バスク・ナショナリスト勢力からレンダカリが輩出されたが、2012年のバスク自治州議会選挙では再びバスク民族主義党が政権を奪還した。バスク・ナショナリスト穏健派のバスク民族主義党は歴史的領土(フランス領バスクを含めた広義のバスク地方)の回復に固執していないが、バスク・ナショナリスト急進左派は歴史的領土に独立主権国家を建設することを目指している。
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