毛利元知とは? わかりやすく解説

毛利元知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/11 04:51 UTC 版)

 
毛利元知
毛利元知像(下関市立長府博物館蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 寛永8年6月22日1631年7月21日
死没 天和3年5月14日1683年7月8日
戒名 高林院涼岸常清
墓所 泉岳寺東京都港区高輪
官位 従五位下刑部少輔
長門清末藩初代藩主
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利秀元、母:本光院(長沼氏)
兄弟 松菊子毛利就隆正室)、宮子、宮松丸、光広、今子、長菊子(永井尚征正室)、千菊子(山崎豊治正室)、万菊子(稲葉正則正室)、元知、妻子、竹千代子(土井利長正室)
正室:蓮華院(七沢清宗の娘)[1]
側室:船越氏小笠原氏
元武元平(匡広)、稲葉正方
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毛利 元知(もうり もととも)は、長門国清末藩初代藩主。長府藩初代藩主・毛利秀元の三男。母は本光院(長沼氏)。

生涯

寛永8年(1631年6月22日長府藩初代藩主・毛利秀元の三男として摂津国大坂で生まれる。

承応2年(1653年)に長府藩2代藩主であった兄・光広が死去して甥の綱元が跡を継ぐと、亡父・秀元の遺言もあって元知は綱元から1万石を分与され、清末藩を立藩した。この清末藩は長州藩の三支藩の一つとして厚遇された。

延宝5年(1677年7月25日、嫡男の元武が20歳で死去したため、次男の元平が後継となる。

天和3年(1683年5月14日江戸で死去。享年53。跡を次男・元平(後の長府藩6代藩主・毛利匡広)が継いだ。法号は高林院涼岸常清。墓所は東京都港区高輪泉岳寺

系譜

  • 父:毛利秀元(1579年 - 1650年)
  • 母:本光院(長沼氏)
  • 正室:蓮華院 - 増山正利の養女、七沢清宗の娘
  • 側室:船越氏
  • 側室:真光院(小笠原氏)
    • 次男:毛利匡広(1675年 - 1729年) - 前名・元平
  • 生母不明の子女
    • 三男:稲葉正方

脚注

  1. ^ 徳川家光の側室である宝樹院の異父妹。増山正利の養女。青木利長の娘との説もある。




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