比叡入山
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ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。 (前略)伏して願わくば、解脱の味、一人飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく、妙味を服せん。(後略) — 最澄、『願文』 この願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。 『叡山大師伝』によると、延暦7年(788年)に比叡山に小堂を建て自刻の薬師像を安置した。場所は現在の根本中堂の位置とされ、後に一乗止観院と称する。そこに籠った最澄は『法華経』の研究を重ね「智顗の教学にふれて、天台の法門を得たい」と思い至る。そしてあるとき天台法門の所在を知る人に邂逅し、鑑真が将来した経典を写しとることができたとされる。 延暦10年(791年)12月28日に最澄は修行入位という僧位を授かる。のちに伝燈位を授かる最澄だが、修行位を授かった事は当時の最澄の評価の一面と考えられる。『天台霞標』によれば延暦16年(797年)12月10日に内供奉の欠員を補うためにこれに任ぜられた。内供奉は宮中の内道場で読師などを行う僧で10名が定員。欠員ある場合は清行の者で補い、任期は生涯であった。前述のように寿興と交流があったことから最澄が推薦されたと考えられる。 延暦16年(797年)に最澄は比叡山に一切経を揃える写経事業を発願する。弟子たちに写経をさせたほか、助力を請うため南都諸寺に願文を送っている。この呼びかけに答えたのが大安寺の聞寂や東国の道忠である。延暦寺浄土院に2巻のみ現存する『華厳要義問答』は延暦18年に行福という僧が写経したと記されるが、この時の経典とされている。なお道忠の門弟には円澄、円仁が居る。延暦17年(798年)10月に法華十講の法会を行う。これは最澄が法華三部経の講義を行ったとされ毎年行われた。さらに延暦20年(801年)11月24日には南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催している。 最澄が比叡山に籠った理由は定かではないが、入山後も官僧としての務めを果たし南都各宗とも交流を持っていることは明らかであり、「既存の仏教に嫌気がさし」などの後ろ向きな理由ではなかったと考えられる。
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