比叡入山とは? わかりやすく解説

比叡入山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:10 UTC 版)

最澄」の記事における「比叡入山」の解説

ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒受けてほどない延暦4年785年7月中旬比叡山籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂願い俗に交わらず、山居求めて服餌せんと欲すれば三綱連署せよ」とあり、最澄このような公的な手続き踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝によれば、まず比叡山麓の神宮禅院懺悔の行を修めつづいて願文』を著したとされる。 (前略伏して願わくば解脱の味、一人飲まず安楽の果、独り証せず。法界衆生同じく妙覚登り法界衆生同じく妙味服せん。(後略) — 最澄、『願文』 この願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文読んだ内供奉の寿興と最澄固い交わり結んだとする。 『叡山大師伝』によると、延暦7年788年)に比叡山小堂を建て自刻の薬師像を安置した。場所は現在の根本中堂位置とされ、後に一乗止観院称する。そこに籠った最澄は『法華経』の研究重ね智顗教学にふれて、天台法門得たい」と思い至る。そしてあるとき天台法門所在知る人邂逅し、鑑真将来した経典写しとることができたとされる延暦10年791年12月28日最澄修行入位という僧位授かる。のちに伝燈位を授かる最澄だが、修行位授かった事は当時最澄評価一面考えられる。『天台霞標によれば延暦16年797年12月10日内供奉欠員を補うためにこれに任ぜられた。内供奉宮中内道場読師などを行う僧で10名が定員欠員ある場合は清行の者で補い任期生涯であった前述のように寿興と交流があったことから最澄推薦されたと考えられる延暦16年797年)に最澄比叡山一切経揃え写経事業発願する。弟子たち写経をさせたほか、助力請うため南都諸寺に願文送っている。この呼びかけ答えたのが大安寺の聞寂や東国道忠である。延暦寺浄土院2巻のみ現存する華厳要義問答』は延暦18年に行福という僧が写経した記されるが、この時の経典とされている。なお道忠の門弟には円澄円仁が居る。延暦17年798年10月法華十講法会を行う。これは最澄法華三部経講義行ったとされ毎年行われた。さらに延暦20年801年11月24日には南都各宗の高僧呼びかけ法華十講催している。 最澄比叡山に籠った理由定かではないが、入山後も官僧としての務め果たし南都宗と交流持っていることは明らかであり、「既存仏教嫌気がさし」などの後ろ向きな理由ではなかったと考えられる

※この「比叡入山」の解説は、「最澄」の解説の一部です。
「比叡入山」を含む「最澄」の記事については、「最澄」の概要を参照ください。

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