武雄神社 (武豊町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/01 04:59 UTC 版)
| 武雄神社 | |
|---|---|
| 拝殿 |
|
| 所在地 | 愛知県知多郡武豊町上ケ8 |
| 位置 | 北緯34度51分22.8秒 東経136度55分16.1秒 / 北緯34.856333度 東経136.921139度座標: 北緯34度51分22.8秒 東経136度55分16.1秒 / 北緯34.856333度 東経136.921139度 |
| 主祭神 | 須佐之男命(主祭神) |
| 社格等 | 従三位 帳内社 郷社 |
| 創建 | (論)奈良時代以前 |
| 本殿の様式 | 流造 |
| 別名 | 天王 |
| 地図 | |
武雄神社(たけおじんじゃ)は、愛知県知多郡武豊町上ケにある神社。『尾張国内神名帳』の知多郡「武雄天神」に比定されている。
祭神
- 主祭神[1]
- 須佐之男命(すさのおのみこと)
- その他の祭神[1]
歴史
近世まで天王と称され、知多郡長尾村の氏神であった。貝塚の上に境内があり、創建年は定かでないが奈良時代以前とする説がある[1]。鎌倉時代中期からは長尾城[2]という城郭の一部として祀られた[3][4]。承久3年(1221年)の承久の乱後には山城国醍醐から代官として赴任した岩田氏が長尾城の城主となり、岩田氏の末裔が武雄神社の神官を務めている[3][4]。天文年間と弘治年間に岩田氏によって社殿が修造された際の棟札が残るという。江戸前期成立の『寛文村々覚書』には「長尾村...天王 弥大夫持分 前々除」とある。
江戸期に天野信景によって『尾張国内神名帳』の知多郡「武雄天神」に比定され、定説となった。当社が武雄天神に比定されたのは、所在地が長尾村で「長尾」を「たけお」と訓じることができるためである。「武雄天神」の名は『延喜式神名帳』や『尾張国内神名帳』(貞治本・元亀本)には記載されていない。記載があるのは『尾張国内神名帳』のうち甚目本や正徳本など一部の写本のみで、「従三位 武雄天神」とある。
1872年(明治5年)には村社に列格された[5]。1878年(明治11年)に郡区町村編制法の施行によって知多郡長尾村と大足村が合併する際には、長尾村の氏神である武雄神社と大足村の氏神である豊石神社から一字ずつを取って武豊村と命名された。1923年(大正12年)時点の境内地面積は2514坪、氏子数は664人だった[6]。
1940年(昭和15年)4月には郷社に列格された[5]。戦後には神社本庁に所属して七級社に指定されたが、1955年(昭和30年)4月には愛知県神社庁によって四級社(旧国幣社格相当)に指定され、知多半島随一の社格を持つ神社となった[5]。武豊町にある旧郷社は武雄神社と知里付神社(ちりゅうじんじゃ)の2社のみである[5]。
境内
- 本殿
- 拝殿
- 齋館
- 社務所 - 長尾会館と呼ばれる。
- 鳥居 - 一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居。
- 蕃塀(ばんぺい) - 檜皮葺。
- 狛犬 - 1931年(昭和6年)に製作された陶器製(常滑焼)の狛犬。
- 手水舎
- 御井戸(みいど) - 御神水が湧き出る井戸。御井社(みいしゃ)が祀られている。
- 御神水(ごしんすい) - 神棚への供物、敷地への散水、禊など心身の清浄に用いる。
- 御神木(ごしんぼく) - 樹齢100年以上のヒイラギ。厄除けのために境内北東(鬼門の方角)にある。武豊町の「大樹百選」に登録されている。
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社務所(長尾会館)
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一の鳥居
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蕃塀
祭礼
毎年4月15日に最も近い土曜・日曜に例祭の長尾地区祭礼を行っている[1]。御山車神事(おくるましんじ)では各地区から6輌の山車が奉納され、境内に曳き込み・曳き出しされる。江戸初期に初めて御山車神事(おくるましんじ)が行われた[1]。明暦年間から萬治年間、尾張藩藩士の大島四郎兵衛藤原久成が領主になると、自ら神輿を奉献して華やかな祭礼を行うようになった[1]。
社叢は「月読みの森」と呼ばれ、かつては満月の夜に境内で和歌が詠まれた[3]。毎年旧暦8月15日(仲秋の名月)には名月祭が開催され、講演祭・音楽祭・朗読祭などの境内行事が行われている[3]。
現地情報
- 所在地
- アクセス
脚注
外部リンク
- 武雄神社_(武豊町)のページへのリンク