武者小路家
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「武者小路家」を参照 三条西実条の次男である公種が興した家。家名の由来は、室町時代に三条西実隆らが住んだ武者小路通に面する三条西家の邸宅である武者小路第に因む。公種は優秀な歌人であった。公種の次は、一族より実陰が継承した。実陰の息子である公野も優秀な歌人であった。
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武者小路家(藤原北家閑院流)
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「武者小路家」の記事における「武者小路家(藤原北家閑院流)」の解説
初代公種は三条西実条の次男として生まれ、三条西家から分家して新たに武者小路家を立てた。家名は、室町時代の三条西家の邸宅が武者小路通に面して構えられていたことから武者小路邸と呼ばれたことにちなむ。 三条西実条の三男・実号(さねな)は分家して西郊家(にしむらけ)を起こしたが、その長男・実信の長男・実陰が大伯父の公種の養子に入り、武者小路家を相続した。この2代実陰とその長男 3代公野は議奏を務め朝廷で活躍した。また武者小路家はこの実陰も含め、優れた歌人を数多く輩出していることでも知られる。 西郊家は実陰が本家を相続したことで当主を失い一旦途絶えたが、のちに天皇から実陰の次男・重季に西郊家の再興が特に許されている。この重季が出世して西郊家も晴れて堂上家の一つとして羽林家に加わることとなったが、その際に家名を高松家に改めている。 明治維新後は実世が子爵に叙せられた。 10代公共は外交官として活躍したが、現役最後の赴任となった駐独大使は、駐独陸軍武官の大島浩に散々に振り回された挙句に望みもしない日独防共協定に署名する羽目に遭い、戦後これが災いして公職追放となった。その弟が作家の武者小路実篤である。
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武者小路家(藤原北家日野流)
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「武者小路家」の記事における「武者小路家(藤原北家日野流)」の解説
南北朝時代の公家・日野資明(後醍醐天皇の側近として著名な日野資朝の弟で、柳原家の祖)の子・教光を祖とする。教光から5代縁光まで代々公卿となるが、戦国時代頃に絶家した。 3代隆光(俊宗とも)の娘・円満院は堀越公方初代・足利政知の継室となり、足利清晃(後の義澄。室町幕府第11代将軍)、足利潤童子の生母となる。しかし政知の死後、かつて政知によって廃嫡され幽閉されていた足利茶々丸(潤童子の異母兄)に潤童子共々殺害されている。殺害された理由としては、一説に自らの子である潤童子を政知の後継に据えるために円満院が茶々丸を讒言しており、それが廃嫡・幽閉に繋がっていたことを恨んでいたためともされている。
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