正式発足へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:44 UTC 版)
この間にアクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったものの、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた。とはいえ、自衛隊内部でも「基地上空での曲技飛行は規則違反」「国家公務員が曲芸ショーなどやる必要はない」 という反対意見も根強かった。 しかし、1959年(昭和34年)7月に航空幕僚長が交代すると、航空幕僚長自身がアクロバットチーム設立に対して直接介入するようになった。この時の航空幕僚長は、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある源田實である。源田は過去の経験から、アクロバット飛行が一般人を引きつけることで、自衛隊が国民に親しまれる効果だけではなく、隊員の士気向上にも効果があることを知っていたと考えられている。また、非公認のままでは、訓練中に事故死しても殉職扱いにならない可能性がある ため、源田は「万一の事故でも名誉ある措置が取れるように」と考えた。 こうして、アクロバット飛行チームの制式化は航空幕僚長である源田の内諾を得られ、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられた。1960年(昭和35年)3月4日には、浜松北基地で第1航空団司令と空幕防衛部長がアクロバット飛行の仕上がり具合をチェックすることになり、16課目のアクロバット飛行を披露した。なお、当初は展示飛行のことを「公開飛行」と称していた。まだアクロバット飛行チームは制式化されていなかったものの、これがブルーインパルスの第1回目の公式展示飛行とされている。この検閲の結果、第1航空団司令と空幕防衛部長は「合格」という判断を下した。この報告を受けた源田は、同年4月12日の公式展示飛行を視察した上、同年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した。 この下命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足した。空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた。なお、空中機動研究班は1個の独立した部隊ではなく、第1航空団の教官から選抜されたパイロットによるチームであり、教官としての職務の傍らでアクロバット飛行訓練と展示飛行を行っていた。また、このときに考えられた課目は、ほぼすべてがサンダーバーズの課目構成に倣ったものだった。
※この「正式発足へ」の解説は、「ブルーインパルス」の解説の一部です。
「正式発足へ」を含む「ブルーインパルス」の記事については、「ブルーインパルス」の概要を参照ください。
- 正式発足へのページへのリンク