欧州防衛戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:29 UTC 版)
「マブラヴ オルタネイティヴ」の記事における「欧州防衛戦」の解説
1979年BETAはポーランドへの侵攻を開始した。パレオロゴス作戦で消耗していたポーランド軍は短期間に崩壊、避難がすむまもなく首都ワルシャワが陥落した。政府首脳はワルシャワからの脱出中に戦死、政府機能を失ったポーランドは混乱し、逃げ遅れたワルシャワ市民100万人が犠牲となった。東ドイツを中心とするワルシャワ条約機構軍がポーランドへ出動。ポーランド避難民を保護しながら絶望的な撤退戦を繰り広げた。最終的にポーランドは1500万人が犠牲となった。 次にBETAの標的となった東ドイツはオーデル・ナイセ流域に絶対防衛戦を構築。国力の8割を防衛戦に投入し79年~83年までBETAの侵攻を食い止めた。戦術機運用で先進的な理論を生み出していた国家人民軍はBETAとの戦闘を通じてレーザー級を排除するレーザーヤークトを確立させた。後にレーザーヤークトは東側だけでなく西側の軍隊にも導入された。 1983年BETAがオーデル・ナイセへの大攻勢を開始すると、東ドイツでは国家保安省シュタージが政権を掌握し、対BETA戦に特化した軍事統制国家の建設をめざした。国家人民軍改革派はクーデターにふみきり、シュタージ政権を打倒。NATO軍や国連軍を領内にひきいれ、BETAの侵攻を食い止めている。 1984年に両ドイツは陥落したが、NATO軍やドイツ軍のダンケルク作戦により、国民の避難を成功させ、人口を保全した。 1985年にはパリが陥落。1987年にはイギリス本土にBETAが上陸した。戦術機戦力の拡張を進めてきたイギリス軍は亡命各国軍とともに反撃を開始。首都ロンドンを奪還し、本土からBETAを駆逐した。イギリスは欧州で唯一国土を保全した国家となり、欧州反攻の拠点として機能することになる。
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