欧州防衛共同体論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
「フランスの歴史」の記事における「欧州防衛共同体論争」の解説
詳細は「欧州共同体」を参照 1948年2月にチェコスロバキアで発生したクーデターは西側諸国に衝撃を与え、アメリカ主導のもと、1949年に北大西洋条約機構(NATO)が設立され、フランスも、イギリスやイタリアなどとともに参加した。1950年にNATO理事会でアメリカが西欧防衛強化のためにドイツの再軍備を提起すると、イギリスを筆頭にそれを受け入れたものの、フランスは唯一それに反対を示した。こうした態度は、イギリスや北欧諸国から強い非難を浴びたが、フランスは対抗提案として「欧州防衛共同体」(CED)構想を提示し、これらは5月に外相ロベール・シューマンによって発表された欧州石炭鉄鋼共同体(CECA)構想の防衛版でもあった。CED構想は1952年2月のエドガー・フォール内閣や、後継の5月のアントワーヌ・ピネー内閣で議論され、CEDを設立させて欧州軍を発足させるパリ条約が調印された。しかしこの条約の批准に必要な議会からの過半数の支持を得られる可能性が望み薄であったことや、こうした構想はフランス世論を二分させ、社会学者のレイモン・アロンはこの事態を「ドレフュス事件以来フランスの最も重大なイデオロギー論争」と評した。CED論争はフランスの内政を麻痺させたほか、外交政策の足かせにもなり、議論は2年以上続き、その間に起きた国際情勢の変化は次第に批准を不利に傾かせた。結局、CED構想はソ連でのスターリンの死に伴う東西緊張の緩和などを背景に、その超国家性に対する批判が紛糾し、最終的に国民議会によって批准は拒否され、この構想は頓挫した。
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