欧州での変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 00:44 UTC 版)
古代の戦闘形態は不明な点がおおく、古代の文献をもとに、発掘された遺物や壁画、武器や壺の絵などから想像されたものが中心となる。戦闘形態は歩兵中心から騎兵中心へと「進化」したと捉えられがちであるがこれは史学的根拠のある推測ではなく、アリストテレス「政治学」には、当初は騎兵が軍事力において卓越していたので国制は貴族制であったが、その後重装歩兵が国家の戦力の中心になると民主政となったとする。考古学の観点ではそれ以前にヒッタイトやエジプトではチャリオット(戦闘馬車)が使用されていたことが知られており、戦闘馬車は騎兵戦力に駆逐され、やがて騎兵が重装歩兵に駆逐され古代民主政国家が成立したと見られている。 古代末期には、戦いの形態は勢力同士による会戦から、北東方面の民族からの寇略とそれに対する迎撃追撃に焦点が移り、機動力を重視した騎馬による軍事編成が重視され、また鐙の伝来により重騎兵の重要性が高まったため、重装歩兵は戦場の主役の座を退いた。近世に入り火器が発明されると重騎兵の強みは失われ歩兵が再び主役となったが、その多くは火器を装備した軽装の散兵であって、スペインで発達した密集陣テルシオにしても長槍(パイク)を装備した槍兵の防具は比較的軽装であった。 装甲兵は要塞防衛など戦局の往々においてその強みを発揮する事があった(ロドス島攻防戦)が、火器の発達や大砲の破壊力の増大により装甲そのものが役に立たなくなり、また歩兵が陣形を組んで戦う戦術的な意義も低下し、傭兵の逃走を防止するなど運用面での要請以外に密集陣形が採用されることはなくなり、射線形成のために縦隊・横隊列を形成することはあっても、もはや重装歩兵と軽装歩兵による戦列は消滅した。
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