次郎長伯山
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「清水次郎長 (講談)」の記事における「次郎長伯山」の解説
三代目神田伯山は、『次郎長伝』、『夕立勘五郎』、『野狐三次』等の「三尺もの(侠客物)の上手」と讃えられる。次郎長伝の評判により、俗に「次郎長伯山」とまで呼ばれるようになった。周囲八丁の寄席の客を奪うほど人気を得て「八丁荒らし」の異名をとる(八丁荒らしは人気の芸人への一般的なほめ言葉で使われる) 山本鉄眉こと天田愚庵が養父の清水次郎長生前の1884年(明治17年)4月に発行したお手盛りの『東海遊侠伝』と、「荒神山の喧嘩」に同行した講釈師・松廼家太琉(売講子清龍)から譲渡された『清水次郎長』の「点取本」も参考にして作った。 松廼家太琉は、『鬼面山音五郎』『小柳平助』『鋼ヶ関金太郎』などを創作し、伯山は初演となる1907年(明治40年)5月、東京市本所区亀沢町(現在の東京都墨田区両国)の福本亭にて『名も高き富士の山本』の題で初めて読んだ。 清水次郎長を題材にした映画は、伯山の初演から4年後の1911年(明治44年)10月4日に公開された『清水の次郎長』がもっとも早く、尾上松之助が主演、牧野省三が監督し、日活の前身の1社である横田商会が製作・配給した。ただし伯山の『次郎長伝』との関係は不明である。明確に伯山の名をクレジットした映画作品は、後述するフシ付けが2代目勝太郎や二代目虎造により為され、有望な若手となった頃、講談速記本発行の1924年(大正13年)6月30日公開の『次郎長外伝 大瀬半五郎』(監督賀古残夢、脚本食満南北)、同年10月10日公開の『清水次郎長 義兄の巻』(監督・脚本沼田紅緑)を待つことになる。 実在の人物である本座村為五郎、穴太徳次郎、神戸の長吉、竹居安五郎、黒駒勝蔵らは、次郎長を引き立てるために悪人や卑怯者として描かれた。追分三五郎、小走の半兵衛はここで初めて登場する架空人物である。都田の吉兵衛を「都鳥の吉兵衛」としたのも伯山である。「清水二十八人衆」も『東海遊侠伝』には表現されておらず、初めて数えられた。伯山の講談本『清水次郎長』(1924年)では、大政、小政から鳥羽熊、庵原の廣吉まで10人挙げて、石松を思い出し、追分三五郎は出てこない。。 斬った張ったの殺戮が繰り広げられるヤクザの抗争に過ぎなかった次郎長の実際のエピソードを、「見てきたようなウソを言う」講釈師の基本的性格を遺憾なく発揮して、日本人好みの義理人情に厚い痛快な話に塗り替え「次郎長は正義」という人気の読み物に変えたことに功績があるとされる。 ラジオ放送で講談の初登場は1925年(大正14年)3月5日、この伯山の「次郎長伝」であった。「大瀬半五郎」を読んでいる。
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