機械技術研究所、東京理科大学時代とは? わかりやすく解説

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機械技術研究所、東京理科大学時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:25 UTC 版)

福田敏男」の記事における「機械技術研究所、東京理科大学時代」の解説

1977年4月通商産業省工業技術院機械技術研究所研究員(後、主任研究員1979年10月には西ドイツシュトゥットガルト大学留学客員研究員1981年1月まで)。機械技術研究所では谷江和雄らの指導を受け、大型プロジェクト海底設計生産システム」では億単位予算使用したという。1982年4月東京理科大学工学部機械工学科講師着任し翌年4月には助教授東京理科大学ではテナガザルのように雲梯移動するブラキエーションロボットを提案し皇居周辺の堀から持ち帰った顕微鏡見たことがきっかけで、マイクロマニピュレータマイクロロボット研究開始するまた、フレキシブルロボットアームの振動抑制制御実施。2リンクアームでは単一質点モデル多かった福田分布定数モデル構築し他の研究者にも用いられた。モータ重心偏心によるリンクの連成スピルオーバ現象明らかにした。 さらに管内検査ロボット研究やパイプレスプラントの液体搬送ロボット論文掲載1990年)にも取り組んだ液体搬送ではバネ質点モデル適用し回転傾動液面振動抑制実現適応制御英語版)も適用したこの間1986年にはイェール大学客員助教授務める。客員助教授招聘にあたって研究成果のまとめを求められ福田研究報告集を発行するうになる1987年には足を骨折し入院した松葉杖歩いたりした。そんな折に香港学会出向くが、そこで原島文雄から国際会議ノウハウを学ぶ。さらに当時アメリカで流行していた研究でなくても発表できる国際会議開催決意1988年第1回目国際会議IROSを東京理科大学開催する。なお、初開催にあたってはニューテクノロジー財団などから援助を受け、第1回目以降東芝日立製作所から支援受けたという。

※この「機械技術研究所、東京理科大学時代」の解説は、「福田敏男」の解説の一部です。
「機械技術研究所、東京理科大学時代」を含む「福田敏男」の記事については、「福田敏男」の概要を参照ください。

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